【Requiemed Poem of Potaufeu】 - ポトフ鎮魂の詩 -

ポトフ九歳 豊洲ぐるりパークにて

ポトフ八歳 自宅にて


 
ポトフ七歳 自宅にて 「なんじゃぃ、これは?に、肉か!!」

ポトフ鎮魂の詩 - Requiemed Poem of Potaufeu -

我が家の愛犬がこの世を去りました。名前はポトフ、トイプードル、毛艶はアプリコット、オス 享年九歳と五ヵ月、標準時体重5.2㎏、外面(ソトづら)満天、少し早過ぎて、疾風の如く駆け抜けた彼の人生でありました。

七月から八月をさかいに食欲が急に細りました。夏バテかなとも思いましたが水分摂取も徐々に劣ってきたのに気づき、近所の動物病院にて血液検査を行い、同時に皮下輸液(点滴)や胃・消化器系薬の注入を続けましたが、八月十七日 土曜の朝、夏の一番暑い盛りに帰らぬ犬になってしまいました。

電話連絡によるまさか唐突の出来事にしばらくは呆然と立ち尽くしたままでした。そう、ちょうど一週間前に実家へ帰省していたために死に目に会うことが出来ず、急ぎ新幹線で駆け戻った時は、保冷剤を敷き詰めた発泡スチロールの箱の中で、安らかに刹那の昼寝を楽しんでいるかのようでした。呼べば今にもむくっと起き上がって来そうな嫋やかな表情でしたが、はたして二度と目覚めることはありませんでした。

亡骸を前に何度も名前を叫びました。そうして「行くぞ!散歩に行くぞ!!」と連呼しました。が、ピクリともしませんでした。涙が頬をつたい、しばらくは嗚咽を制御することが出来なくなりました。

ポトフは僕が靴下を履くしぐさや散歩専用ポーチを腰に巻く動作、「さんぽ」や「いく」の意味をすべて理解しており、外出が大好きなこの犬は僕のこうした言動にいつもはしゃいで飛びついてきました。「るすばん!」との言葉の意味も容易に理解でき、僕がこの言葉をひとたび発すると悲しそうな顔をしたり、時には怒って吠え捲る犬でした。「俺を置いて行くなょ!」と言わんばかりに。「まて!」や「どうぞ!」も同様に。

目の前のポトフはすでに亡骸だとわかっていたとは言え、いつまでも反応がない姿に言葉では言い尽くせないくらいの虚無感にさいなまれました。

同時に、夏の暑い盛りゆえ亡骸をそう長くは保存できないことを悟り、悔いなきように荼毘に付す方法を思案し、翌十八日々曜夕刻のペット霊園を予約しました。すでに時計の針は19時を回ったところでした。娘も僕同様二日ほど前から離島へ旅に出ていましたが、夏休み期間中もあって当日飛行機の変更予約ができていませんでした。
その日の夜は一晩中添い寝をして在りし日を思い返しながら偲びましたが、ほとんど寝付くことはできませんでした。あれこれと生前の想い出が去来しました。こんなことになるならば、いっその事帰省しなければ良かったとの慙愧の念が何度も沸き上がり、東京を離れ看取れなかった自身の足らざるを懺悔し続けました。

一方で、最期を看取った女房は焦燥しきっており、僕が帰宅した時からずっと臥せっていました。安置する盛夏のリビングを急激に冷却していたことも原因だったようです。ありがたいことに、亡骸の安置と保存は女房に代わって親友二人が細やかにやってくれていました。そう、ポトフは女房にとってはまことに幸い出来事だったでしょうが、まさに女房の腕の中で息を引き取ることが出来たのは唯一の慰みでした。

その日の朝、女房が起きて間もなく今までにない痙攣と動悸、発作が起こり、その尋常ならざる重篤な症状に、着の身着のまますぐさま抱いて病院へ駆け込んだのですが、既に手遅れの状態でした。病院内で初めて、体に付着するポトフの糞尿に気付いたそうです。もしも、このまま何もなければその日は勤めに出る予定でしたから、悲しみに沈むなか最期を女房が傍で看取ってくれたことに、何とも言えない安堵心と感謝の念を覚えました。ぼそっと「私が起きるのを待っていてくれたのかなぁ」とも呟いていました。愛犬が、誰にも看取られずにひとり苦しみ旅立つ姿を想えば、家人の誰かが居てくれ昇天できたことにどれほど心が救われたことかと自らを観念させました。体を拭いて毛並みを整え、おむつをはめ、綺麗な純白のバスタオルで包んでくれたのは、駆け込んだ動物病院の優しい女医さんでした。

娘も翌朝飛んで駆けつけてくれ無事亡骸と対面できましたが、表現の仕様もわからずに、ただただ泣き崩れてばかりいました。しかしながら、当人は毛艶も生きたそのままの自然さを保持しており、しかも、保冷剤でヒンヤリとした肌触りを除けば、トイプー特有のその両耳も、両手両足の肉球も、まさに生前そのままの柔らかさで、この時こそ死して尚も娘の帰宅を希求する強靭な意志を感じずには居られませんでした。ポトフは、そのままのきれいな姿で生き仏となってよくぞ待っていてくれました。

遺影を現像したり枕花を添えたりと、昼過ぎまでに旅支度を整えて、娘が弾くお気に入りだったピアノ曲を最後に自宅を出棺、僕の車にポトフを乗せて、女房と娘の三人で好きだった想い出の場所を辿りながら、夕刻霊園で荼毘に付しました。最期に、生前に好んだおやつやオモチャ、洋服、毛布、そして枕花を整えなおし、天国で迷わないよう感謝の手紙を添えて…。お骨はもちろん我が手で拾いました。

呆気なく終了しましたが、それでも霊園で悔いを残さず、皆でゆったりと最期のお別れができましたから、「僕自身せめてもの罪滅ぼしは出来たかなぁ。」と、今は自分をあまり責め過ぎないようにしています。お骨と少しだけの遺髪は、今、生前お気に入りだった自宅リビングの片隅に仮設で祭壇を造り、そこに納めて供養しています。少しの後悔もありません。

初七日は僕ら家族と親しかった身内・友人の総勢八人で、しめやかに、でも少し笑顔も戻って取り行いました。酒好きが集まりましたので僕もかなり飲みましたが、ここ一週間あまり食が進んでいなかったためか、空きっ腹にちょっと堪えました。同時に、「三途の川は迷わず渡れたろうか?天国への道は見つかっただろうか?」、「いや、必ず見つけてくれぃ!」と祈らずにはいられませんでした。
ちょっと余談ですが、やがて、四十九(七七)日を経て百カ日を迎えることになります。この百カ日が偶然にも娘の誕生日と重なることになりました。「泣くことをやめ悲しみに区切りをつける日」とありますから、この日が来たら盛大にドンチャンやってやろうと思っています。

ポトフは九年前の六月、娘の高校入学と同時に家族の一員となりました。あらかじめ近くのペットショップに「赫々云々のトイプーが入荷したら知らせて欲しい」旨を注文し、およそ二か月後に出会えましたが、その為にショーウインドーに晒されることなく生後二か月余、自由奔放・無垢のままで我が家にやって来ました。

また、そこから公園デビューを果たした後の約一年余りは、近くの運河に突き出たドン詰まりの小さな公園自体がドッグラン状態になっており、この放し飼いの環境で幼少期を過ごしたためか妙に人懐こく、誰彼となく飼い主さんにすり寄って撫でてもらうことを好みました。我が儘ではありましたが自ら無暗に吠えることもなく、外遊びが好きな活発でとても愛嬌のある子に育ちました。通りすがりの女子高生などがひとたび「かわいい!」と言う音感を発すると、必ず自分のことを呼んでいるのだと身勝手に錯覚するような不届き千万な一面もありました。

僕が酔っ払って踏んづけたら大変だ、と言うことで幼少時分に肉類ばかり与えていたら、5㎏を越える程になりましたが、それでも、胸板が厚く足がそこそこ長かったから一応のバランスは整っていたと思います。娘が名付けたヘンテコな名前(「pa」行だとか「fu」の発音は日本人には難しいので当初反対した)もあってか、皆さんに可愛がってもらいました。

三歳を過ぎたくらいから軽い癲癇だと診断され、物心がついた頃には家で糞・尿をしなくなる等のハンデはありましたが、外に出れば一際元気に振る舞っていましたから、多少煩わしくなることはあってもいつも散歩は楽しいものでした。特に僕との関係においては、最期の最期まで弱音を吐くことがありませんでした。

また、僕の車の助手席にちょこんと座ってコンソールボックスに顎を掛けることが好きで、一旦後部座席へ座らせても、信号で止まった隙に飛び移って来ることが多々ありました。勿論、女房が助手席に座る時は、女房の腕の中で偉そうにふんぞり返って乗ることを日課としていました。

今般、「車で色んな所へつれていったなぁ」との想いで写真を整理してみたところ、フンフン総枚数は13,000枚余り、遠場では水上温泉や伊豆長岡のペット旅館や那須高原、山梨清里高原の貸別荘、富士急ハイランド、富士山麓や山中湖畔、佐野や木更津、御殿場のアウトレット、ちょっと近場では親類の千葉印西別荘やら筑波山、高尾山、奥多摩・長瀞や御岳山など、色んな場面が蘇ってきました。家族の中では僕との散歩が一番バラエティーに富んでおり、いつもニコニコ喜んでついてきてくれました。

特に高尾山は、三歳デビューから七歳時まで合計4回も登頂していて、今更ながらちょっとビックリしました。もっとも往路復路の完全制覇は最初の1回だけで、2回目以降、昇りは途中までリフトに乗り、山上駅から薬王院を通って頂上を目指すものでした。但し、下山は稲荷山コースを下ることが多く、ここはなだらかながらも段差のある個所が数か所続くため、5㎏ちょっとのトイプーにはかなりのハードワークだったと思います。その証左に、帰路は、僕の車の助手席でスヤスヤ眠ることが頻繁にありました。もちろん、あまりにも段差がきついカ所や前日の雨でぬかるんだ処は背負って下りましたが。

自宅周辺では、お台場海浜(潮風)公園、城南島海浜公園、若洲海浜公園、青海埠頭、葛西臨海公園、木場公園等数えることが無意味なほどに出歩きました。さらには、徒歩圏内では、辰巳森林公園や豊洲ぐるりパークなどは、「また今日もここなの?!」と逆に飼い犬に叱られるほどに行きました。とにかくいつでも、僕がひとたび「散歩行くぞ!」と言えば、一言も文句を言わずにせっせと足早に前を歩んで行く、とても外出好きな犬だったのです。

遥か昔の出来事ですが、僕がまだ小学生の頃に同じような辛い経験をしました。
柴犬のような黒っぽい色で、下校途中で拾って家までついて来たので、親に頼んで飼うことにしました。名前はそのままクロと名付けました。生後三~四か月くらいのコロッとした可愛い雑種で、おやじから庭に犬小屋を造ってもらい、そこですくすく育ち、一緒に遊びました。散歩でつれ出すのは、常に僕の役回りだと決まっていました。

ところが一年半を過ぎた頃からクロの動作に異変が生じ始めました。オドオドと歩いたり、モノに躓いたりしだしたのです。そうこうしている内に、なんと目が見えなくなっていることに気づきました。何と言う病名だったかは、今もってしても分かりません。兎に角、若くして目が見えなくなりました。自転車の荷台に段ボール箱を括り付け、その中にクロを乗せて6~7㎞ほど離れた動物病院へ連れて行ったこともありますが、獣医に注射一本打ってもらって「様子を見よう」って言われても、小学生の僕には何をどうすることもできませんでした。

目が見えなくなってからは、クロの寝場所は屋外の犬小屋から玄関の竹籠に代わりました。そんなある日おやじが、「可哀そうだが、これ以上放って置いても本人(クロ)も辛いから、保健所へ預けよう」と言い出しました。保健所へ預けると言うことは、殺処分することであるのは、小学生の僕にも十分わかりました。それから一ヵ月経つか経たないある日の朝、タクシーにクロを乗せて保健所へ連れて行きました。

おやじが書類手続きを済ませて一緒に庭に出ると、クロは鉄の檻の中に一匹ちょこんと座っていましたが、近づくと、目は見えないけれども臭いで僕を感じて、「クゥン」と鳴いたような気がします。僕が傍にいることが明らかにわかっていました。その時僕は涙が止まらなくなってしまいました。「やっぱり可哀そうだから連れて戻りたい」と、そのようなことを言ったと思います。泣きべそをかいた僕を横目におやじもそれなりに辛かったのだとは思いますが、僕のそれには応えず近くの駄菓子屋を指さし、「パンを買おう」と言いました。僕は泣きじゃくりながら、買ったパンを鉄柵越しに与えたら、クロは嬉しそうに食べました。何度も、何度も…。ジャムパンだったかアンパンだったかは、…もう忘れました。別れ際にクロの名を連呼したことだけは、今でもはっきりと記憶にあります。五十年近くも前の出来事を…です。

止めどもなく涙が溢れました。おやじとなんで帰ったかの記憶もありません、タクシーだったかバスだったか。ただ、家に帰っても泣きじゃくった記憶は鮮明です。自分のベッドの中で半日は泣いていました。「今だったらまだ取り戻せる」、とも思いました。結局、目を腫らしたまま、その日の夕方からの友達の誕生会に参加しましたから、今でもその時のことはよく覚えています。

こんなに切ない経験のある僕だったから、ポトフが家族の一員となる際には、娘に対し「犬は、人間より先に死ぬから悲しいぞ、だから生きているうちに想い出をいっぱい作らなければならないよ」と。
いつかは皆が辿る道であり、避けて通れないこともわかってはいるのだけれども、その日が実際訪れば、誰しも悲しみを覆い隠すことはできません。

扨て、以上、随分身勝手で女々しい文章になりました。ここまで辛抱強く読み流してくれた方へのささやかな教訓にでもなればと思い、以下、状況をメモ書きしてみましたので良ければ参考にしてください。

■ポトフの特徴;
 トイプードル、没年齢九歳五ヵ月、標準体重5.2㎏、性別オス、去勢歴ナシ

■ポトフの既往歴;
 ・三歳時頃 癲癇症(軽い)と診断
 ・心臓雑音(軽度から中等度)あり
 ・年1回程度体調不良(嘔吐や下痢症状)あり
  *補足:糞尿は部屋内ではしない(1日2回以上の散歩必須)

■ポトフの性格;
 ・人懐こい   ・自分からは滅多に吠えない ・元気よし   ・外ヅラよし
 ・歩行は速い  ・犬同士のケンカは弱い   ・多少わがまま

■逝去前1~2週間の状況;
 ・八月を境に食欲低下、少し遅れて水分摂取(水)徐々に減
 ・上記を補うため、通院による皮下輸液注射(合計4回)、胃/消化器系薬
  注入(1回)、血液検査(1回、特に異常なし)
 ・体重減少(二週間程度で500~600g減)
 ・散歩は朝晩2回(30分/1回 程度)を日課とするも、状況に応じてベビーカー使用

■駆け込んだ時点の状態(発作発生から15~20分内)と処置;
 ・心肺停止、呼吸・脈の検知不能、瞳孔散瞳。
 ・気管チューブ挿管による人工呼吸、心臓マッサージ処置。

■獣医による所見(死去後にヒヤリング);
 ・血液検査だけでは判明しない症状(臓器)あり。従って、エコー、レントゲン検
  査推奨。
 ・推定し得る死因は、体内腫瘍(癌)、心臓病、肺塞栓症(*器官チューブに血痕付
  着を認めたため)など。脱水症状による発症促進の可能性、但し、あくまでも推測。
 ・普段が元気で食欲旺盛な犬ほど発症の事実認識が遅れる可能性あり。
 ・皮下輸液注射による抑制効果はそれなりにあったはず。

■最期に;
 やはり、突然に逝った感は否めない

ポトフは、本当に暑い盛りに逝ってしまいました。台風の影響もあってか、東京は、翌週末から朝晩はめっきり涼しい風が吹くようになって来ました。もう 十日、いや、せめて一週間辛抱してくれたら、また体力が戻ってくれたかもしれないと、ふと他愛もなく考えたりもしています。しかしながら、逝ってしまったことは事実としてしかと受け止めなければなりません。無念ではありますが…。すでに初七日も終わり、すぐに二七日が来ようとしています。

疾風のように、そして怒涛の如く一気に九年五カ月を駆け抜けたポトフの人生、僕はずっとずっと忘れません。そして、天国への道のりは、先んじて逝ったクロが、水先案内犬としてきっと導いてくれると信じて已みません。ポトフよ、楽しい思い出をいっぱいありがとう!そして、クロ、ポトフを宜しくな!!

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