【Events in foreign country】異国での出来事


二〇三高地から旅順港を望む
異国での出来事;
この話の時代は21世紀初頭、場所は中国北京。まだ、オリンピック開催前の出来事である。僕は、当時勤務していた電子デバイス開発・製造メーカーからの出向社員であり、ただ1人の日本人としてこの地に棲息していた。本社から与えられたミッションは、日本企業として北京に現地法人(子会社)を設立すること、設立した同法人の初期業務オペレーションを軌道に乗せる、また、それを可能ならしめる組織・体制を確立させること、であった。なぜ、上海でも深圳でもなく北京だったかと言うと、この国の首都であり政治の中心都市だったから。単純ではあるが、極めて正攻法である。設立登記は、この時代の日本企業としてはちょっと珍しい100%独資(出資)に仕上がった。まだ、同国が2001年12月のWTOに加盟する直前の硬直した時期であり、外資系企業の出資比率は精々50%までと言われた頃であったから、余程画期的なスタートであったろう。それほど中国側が、和製IT企業の国内誘致を渇望していたものと思われる。
この時分の中国は、89年に勃発した天安門事件により一時中断した改革開放路線に再び突き進んでおり、まさに活気ある都市であった。10~15%であったろうか、割合は忘れたが、学問のみに明け暮れ純粋培養で育った一握りの大卒者が、勃興する企業の中堅職以上を占めており、北京の外資系IT企業や地場銀行の交渉相手は、ほぼ20歳台後半から30台がそれなりの肩書きで登場してくる。民族の違いはあろうが、皆が怖いもの知らずで自信に満ち溢れていた。長安街通りの商業ビル、ホテル、ショッピングモールは東京と比べても格段にデカく、日本との国土の違いを彷彿させてくれた。王府井近くの東方新天地(ドンファン)などは、僕がいたこの頃にできたビルで、当時あまりの大きさに目の玉が飛び出そうになった記憶がある。一方、現地に進出した日本企業で、当地で既に事業を営んでいる金融法人は、興銀(現みずほ)と三菱(現三菱UFJ)と三和(現三菱UFJ)の三行のみ、しかも、人民元を取り扱う店頭営業は未だ認められていなかった。証券や保険営業などはまだ存在の兆しすらもなく、従って、天下の野村証券も日本生命も表面的には見る影もなかった。外車は圧倒的にドイツ勢に押しまくられ、我が国屈指のトヨタや日産、ホンダもかなりの少数派時代。但し、一点、どのタクシー運転手に聞いても「日本車は好き、性能が良いし故障しない」と言ってくれ、それなりに認知度が高かったことには安堵した。
ITに話しを戻せば、僕が当時かなりビックリしたことがある。次世代を担う中国人たちが皆、携帯電話を所有していたことだ。僕でさえ、日本では自己の携帯電話は所持していなかった。2001年当時の北京で、中国製の携帯電話が2,000~3,000元(1元15円で30,000~45,000円 *注;日本とは料金体系が異なり、機種購入時に対価を一括で支払う)、北京在住のサラリーマン平均月収が1,100元(15,000~16,000円)と言われた時代である。さすがにPCは1台5,000元以上したから、一握りのエリート社会人以外が個人所有するのは困難な時代だったが、それにしても月収の2~3倍もする携帯電話を皆が所有するこの国とは一体何者なんだろうと不思議がった。ちなみに、当時の北京っ子が憧れた日本製のノートPCはソニー製VAIOで、中関村(北京の秋葉原街)辺りで確認すると15,000元以上もする高嶺の花であった。僕が勤務する現地法人は中国人15人所帯でスタートしたが、その年齢幅は23~33歳位、給与は月額1,200~4,500元程度だったから、スタッフにとっても勿論高額であったことには違いない。では、なぜ、皆が携帯を求めたかのか? 答えは簡単、これが「飯の種」だからである。また、中国では、日本ほど固定電話は普及しなかった。この理由も簡単、インフラ整備に莫大な投資が必要だからである。グラハム・ベルによる発明以来、日本では1890年代に普及が始まり、携帯電話に移行する1990年代まで固定電話の歴史はおよそ100年続く。この100年間でどの位の電柱が立ったかを調べた[2011年NTTデータより]ところ、何と全国で約3,300万本。1道府県辺り平均70万本以上の柱である。この高額投資を中国が行う時間的余裕はなかったろう。そして、その「なさ」が功を奏したとも言える。日本のように、初期投資額が高ければ高いほど、また、その期間が長ければ長いほど、その努力を捨てるには覚悟と度胸がいる。また、切り替え時期には必然的に利害の衝突が生じる。中国では、日本で生じたそれらが不要または軽微であった。今日でも厳然と世界に冠たる携帯電話(今はスマホであろうが)社会となっている。インフラはないが転用は上手い、もしくは、インフラがないが故に転用が上手い。かつてはかの国の形容詞だったかと記憶する。かの国はやがて技術大国となった。中国は果たしてどうなるであろうか?とは言え、この国が侮れないと思ったエピソードのひとつではあった。
扨て、再び話しを現地法人設立時へ戻す。オフィスは、北京中心部東側の朝陽区に構えた。ちょっと余談になるが、なぜこの東側地区を拠点化したかと言えば、先に記した天安門事件勃発の舞台となった天安門広場を中心に戒厳令が敷かれた際に、危機に瀕した日本企業が本国からの帰国指令に従おうと各社準備をしたが、北京市西側を拠点とする企業が相当数足止めを食らったと言う経験談に基づく。一度あることは二度あるとの心境でもあった。政府の胸三寸でいかようにも変容するお国柄である。北京国際空港は北京中心部の東北方向に位置しており、ビジネス街として、朝陽区は空港へ最短で行ける。兎に角、朝陽区からスタートした。会社登記の一切は、人伝に中国人弁護士の紹介を受け、都度相談しながらフィージビリティ・スタディ報告(実現可能性調査)を整えた。仮に、趙先生としておく。趙先生は、当時40歳代半ばに見える弁護士であったが、過去に京都大学法学部へ留学した経験を持つ日本語が達者でしっかりした女性弁護士かつ押しが効く。さすが男女平等な国家であると、妙に感心したものである。結局最後まで、この趙先生には多大なる恩恵を頂戴し、前述した社命でもある100%独資企業の設立が可能となった。但し、ここまで来るには多少の苦難はあった。まず、本店所在地に拠点を創り、相応の家賃を支払うこと。他、自前の製造工場は設立時点では要件としないが、将来的には考慮すること。単なる販売会社としないこと。創造的な特許技術の国内普及に資すること、等であった。
当時の対応について順を追って説明しよう。本店は、北京市の東南郊外に位置する北京経済技術開発区内に最小のオフィスを設置し、毎月の家賃を支払った。ここが登記簿上の本店である。また、実態としては販社としてのスタートであったが、申請書には、販売以外に一部開発(エンジニアリング)やアッセンブリィを行い、担当者を常駐させること、また、最たる強みは、グローバル市場の90%以上を独占する世界的な特許技術を有すること、この技術がやがて中国社会に貢献できる日が来るであろうことを力説した。開発区の担当者と議論した覚えはない。片言の英語は解するが、中国語はからっきし駄目である。結局、申請時に二度ほど立ち会った(とは言え当事者ではあったのだが)だけで、後は一切合切を趙先生にお任せした。結果は記述の通り、すべて期初の目的を果たせた。目先の課題を闇雲に一生懸命潰して行った記憶はあるが、それ以上に、中国側の改革開放・技術大国を目指す時代と意志に合致したことが大変ラッキーな結果を生んだことは事実である。1年半の在任期間中、肝心の事業の方は当初描いたような成績が残せなかったが、それでも将来に向けた先鞭をつけることができたように思う。同社は、風の便りで現在100億円ビジネスにまで成長したと聞いた。
2001年6月、僕は帰国の途に着いたが、その直前、謝意を表するために趙先生の事務所を訪ねた。これまでの依頼事項に対するアドバイスないしは業務代行に対して直接のお礼を伝え、そして、常日頃から疑問(というよりも不思議)に思っていたことを質問した。先生に依頼した事項は、会社設立登記申請だけではなく、外貨の海外送金方法であったり、期中の増資方法であったり、はたまた、現地従業員の社会保険や労働問題など多岐に渡っていた。しかしながら、特に、政府系機関との交渉の際に僕が同席することは必須以外の場面では皆無だった。それでも結果はすべてがオーライであったから余計な介入を避けてきたのだが、本国への土産話として尋ねてみた。回答は、予想に反せず至って簡単なものであった。
・中国は、日本と違って人治の国家であること。
・従って、複雑な法律や難解な手続きだらけであるにも拘わらず、人対人のコミュニケーションにより解決
の糸口が開けること。
・交渉相手も所詮は「人」であることから、常に損得を考慮し相手の損にならない結論を導き出すこと。
概ねこのような説明であった。こちらの要求を満たすために、いわゆる賄賂を使用したかどうかはわからない。但し、こちらの要求を満たすこと(たとえ限度はあっても)が相手方の利益にも繋がる(または損なわない)との交渉術が功を奏したことは間違いない。
『あなたにそのような中国の恥部を見せたくはなかった』、とも言われた。中国人としての矜持であろう。これですべてであり、難解で非常にわかりにくい社会でありながら、実は人として至って簡単だった1年半が終了した。
◆教訓;
1)撤退の要件は、数値化して常に備えておくこと
2)中国(人)の『問題なし(没問題)』は大いに問題である
3)中国国内での民事訴訟はタブー
4)真心で接すれば、必ずや人に通じる(民族に国境はない)
補足; 21世紀初頭、中国市場へ進出する日本企業はかなりの数に昇っていた。それを煽る『中国進出セミナー』なるものも、東京のあちらこちらで開催されていた。日本は、当時世界の製造庫であった台湾に代わる低人件費の次なる国を探し求めている時代であり、中国は理に叶った理想の国であったのだ。近年、その中国も、人件費の高騰によりインドやタイ、ベトナムに取って代わられようとしており、各社は中国からの撤退を望みながらもあらゆる規制により儘ならないと聞く。法外な代償を支払わなければ撤退できない蟻地獄だと。無事に実現することを願ってやまない。