【“A Dog's true purpose through of his walking Journey.”】

ポトフ家族となる 生後60日

ポトフ家族に慣れる 生後80日

ポトフ荷物となる 4歳頃

ポトフ寛ぐ 6歳

ポトフ微睡む 8歳

■ “A Dog's true purpose through of his walking Journey.” (*写真は、巨大な肉の塊に白目を剝いて慄くポトフ 7歳)

この詩(ポエム)のタイトルは《英語》のみです。僕がそう、勝手に綴りました。日本題がないのは初めてです。題材は、今、上映中の米国ドラマ映画“僕のワンダフル・ジャーニー”から捩ったものです。2年前に公開された“ 僕のワンダフル・ライフ ” 輪廻転生物語りの続編ですが、昨夜、一人静かに映画館で鑑てきました。原作はWブルース・キャメロンの “ 野良犬トビーの愛すべき転生 ”(A Dog’s Journey)だそうです。原本にこのタイトルのような表記があるのかないのかには、正直、興味がありません。これは僕の章だからです。また、この先この原本を読んで確かめることもないと思います。僕の勝手ですから。

著者キャメロンも、主人公イーサン扮するデニス・クエイドも世代的には僕とそう変わりません。設定も1960年代から2000年やそこらに感じました。特に一作目《 >>ライフ 》では、挿入歌にサイモン&ガーファンクル(60~70年代)や、後半にはビージーズ(70~80年代)などの効果音を使用していたので、ところどころで懐かしさが込みあがりました。いずれにせよ、今から数十年も前の物語ですから、犬の寿命も五歳か七歳かそこらだったのではないでしょうか。日本ではまだ、室内飼育もドッグフードも普及していない時代でした。

なお、テーマ曲であるスティーヴ・アオキの “ Walk Off The Earth performing Home We'll Go ” は初めて触れる曲でしたが、なかなかいい味を出していたと思います。ジャンルも嗜好も全く違いますが、ふと、僕が昔、好んで聞いたネィティブ・サンの《 サバンナ・ホットライン(79年)》やジグソーの《 スカイ・ハイ(75年)》、エア・サプライの《 さよならロンリー・ラブ(82年)》なんかを連想しました。それぞれモチーフが草原(大地)・大空・大海原とバラバラなんですが、何と言ってもこれらの共通項は、壮大な時空の広がりです。ちなみに本編は、アメリカ五大湖の畔、ミシガン州の延々と続く広大な小麦畑が舞台設定でした。

一方《 >>ジャーニー 》の方は、う~ん、僕には、残念ながら特に印象に残る曲はありませんでした。まあ、これは個人の世代感や好みにかかわる話なので、あくまでも《僕には…》と言う以外は、大意も悪気もありません。

さて、映画《 >>ライフ 》物語りは、人間の主人公イーサン少年が、相棒犬 “ 通称 ボスドッグ ” ことベイリー(ゴールデン・レトリーバー)の命を助けたことからはじまります。ベイリーの天寿全うを機に、今度はエリー(ジャーマン・シェパード)として生まれ変わり、次にティノ(コーギー)へと永劫回帰、再びバディ(グレート・ピレニーズ、他)となって、念願のイーサンと再会する。

今般の続編《 >>ジャーニー 》では、引き続きバディに始まり、モリー(キャバグル)、ビッグ・ドック(ボーアボール)へそれぞれ流転輪廻し、最後はマックス(ヨークシャー・テリア)としてN・Yからまたミシガンの小麦畑へ戻り、再々、イーサンとの邂逅を果たす。マックスが、年老いたイーサンの最期を看取り、また、自身もその後安らかに息を引き取ると言う、大変わかりやすいストーリーでした。
それぞれいたるところに一人と一匹、家族と一匹、はたまた家族間の愛と絆が鏤められていました。平凡な言いまわしにはなりますが、すごく良かったと思います。

二話で総勢七匹(転生6回)、イーサンの幼少から青年期を支えたベイリーを筆頭に、以降50~60年の時を刻み、イーサンとのひとときを共有できたのが、バディ、マックスの三匹。この三匹は、ミシガン小麦畑の草原を駆け回り、得意の “アメフトボールのジャンプ捕り” を見事披露することが出来ました。また、イーサンとシカゴでちょいの間だけ会えたのがモリーで、他方、会えないまでも、家族の可愛い孫娘CJとNY近郊でのコンタクトがあったビッグ・ドックと比べたら、輪廻を自覚しながらも結局イーサンとは会えなかったエリー、ティノの二匹は、構成上ちょっと残念だったのかもしれません。

ひょっとしたら、《 >>ライフ 》で「少しでも会わせてやれ!」との批判が出て、続編《 >>ジャーニー 》では、すべてイーサン・ファミリーに接触させたのかもしれません。それでも、そのエリー&ティノを含めて、それぞれが独自のキャラを活かして楽しいドッグ・ライフを送っていましたね。

僕が、この二作を見るきっかけとなったのは、僕の愛犬ポトフの最期(8月17日寂 享年9歳5カ月)を丁寧に看取ってくれた女医さんによる勧めでした。垂頭喪気する僕を尻目に、「自分も見て良かったから、是非…。」とお声掛け頂きました。ひょっとしたら、僕のBlog前編で、実娘に対して「犬は、人間より先に死ぬから悲しいぞ、だから生きているうちに想い出をいっぱい作らなければならないよ」と言ったことや、五十年ほど前の愛犬クロとの切ない想い出を語ったりしたものだから、僕の実体験とこの二作とに相似性を感じてくれて、憐れんでくれたのかも知れません。とにかく偶然ではありましたが、どこか心をほっこりさせてもらいました。ただし、涙は出ませんでした。

また、作品からは、
◆ベイリー(犬)の言葉 →「ただ、今を一緒に生きる、犬はそのためにいるんだ」
◆イーサン・ファミリー(人)の言葉 →「犬の人生は人より短い。だから一緒の時間を大切
                   にし、今を一生懸命生きなければならない」

と、聞こえて来るようでした。そして、僕の犬は、

◆自分が病気だったり、もうすぐ寿命が来ることなどわかりっこなかった。ただ、今は、ご飯を食べたくないと意識していただけ

◆昨日を忘れ、明日も憂えず、今(現在)を楽しみながら、シンプルに、そして一生懸命に生きただけ

であったろうことを、あらためて悟りました。

冒頭の “ Purpose ” は、目的とは表現せずに、“居る意味(meaning of life)”とでも言い回すことにします。ポトフが存在した意味は、大いにありました。兎にも角にも、よく食べて、遊んで、よく寝て、色んなところへ連れだって、僕や僕たち家族にいっぱいの幸せを与えてくれて、そうしていっぱいの想い出を置いて、今を一生懸命駆け抜けて逝った犬でした。

あれから今日17日で、ちょうど丸一カ月が経ちました。さらに一層、朝晩は涼しくなっています。正直、まだ「もう少し頑張ってくれていれば…」との未練もあります。半面、「じゅうぶん、今(まで)を生きてくれた」との安堵感も、徐々に高まってきています。ウソではありません。

【追記】
九月の初旬、まだ少々痛さが残る頃、ある女性アニマル・コミュニケーター(AC)さんに頼んで、ポトフの心境を聞いてもらいました。ただ、ふと、そうしたかったからです。最期は「普通(普段通り)だった」とのことでした。また、「家には幸せがいっぱい詰まっていた」とも。さらにありがたいことに、「まだ…体温を感じる…」姿だったそうです。逝って三週間ほど経った頃のことでした。
まだ、息子の帰宅を待ってくれているのかもしれないと、つい、錯覚してしまいました。笑ってやってください。

女医さんからも、そして、このACさんからも、なにか今般偶然にも、“感佩のえにし”を頂戴した感があります。生前、プレイボーイ犬だったポトフの面目躍如のなせる業なのかも知れません。

息子は、今月末には海外から戻ってきます。奇しくも、ポトフが旅立った日に、同じく旅に出かけた奴でした。きっと「ヨッ!ポトフ元気か!!」とかなんとか言いながら…、優しい奴だから、きっとポトフへのお土産を買って、ね。

果たして喜んでくれるかなぁ!?

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