【Real intensions or “Tatemae”】- 本音と建て前 -


剣岳 長野県
■本音と建て前 - Real intensions or “Tatemae” -
しばしば日本人論に準える聞き慣れた言葉に、本音と建て前があります。本音の意味はまさに“本当の気持ち”でありこれには異論がないのですが、建て前は少々厄介です。我々はおおむね“表向きの表現”といった意味で使用することが多く、類語を調べて見ると“うわべ”とか“外面”、または“基本方針・原則”など相当多岐にわたる関連語が出てきます。場面によっては“嘘”などといった連想が表記されるため、それだけ一語でズバッと説明することが窮屈であり色んな意味に訳される言葉のようです。英語を調べて見てもfaçade(表面、うわべ)のようなやや一元的な単語はあるものの、さらに本来の意味合いに近づけようとするとwhat one says on the surfaceのようにややギクシャクした表現にならざるを得ません。さりとてこれもピシャリと腑に落ちるものではないようです。
さて外国人が、この建て前を使う日本人を評して、「わかりづらい」とか「あいまい」だとか眉をひそめることが多々あるようですが、ここ日本では近年にわかに用いられるようになったというよりも、少なくとも数百年前から争いごとを避ける手法のひとつとして立派に根付いていたものです。日本のそれは、民族の歴史と共に育まれて、相当熟れて年季が入ったものと言えるのではないでしょうか。
日本人は、場と相手によって本音と建て前をうまく使い分け、コミュニケーションを行います。それは元来全ての人と摩擦を減らし人間関係をスムーズにするための言動なのです。“和”を保つためのテクニックであり、人とストレスなく円滑に交流するために培ってきたノウハウだろうと思います。島国の歴史や風土に程よく馴染んできたのでしょうね。
文化の異なる外国人と特にビジネスなどで交渉をする際には、この本音と建て前を使い分けることはあまり得策ではないようです。たとえこちらが極度に相手を傷つけまいと配慮した建て前であっても、交渉過程で相手を混乱させてしまって、まとまる話が却ってまとまらなくなることがあるようです。
また、同じ日本人であっても、生まれや育った土壌によってか多少の個人差があるようです。あくまでも個人的体験に基づく印象ですが、全般的に九州地方は、子供の頃から「言い訳するな、本音を吐け!」といった風土が未だ残っていますので、あまり建て前論は流暢ではないように感じます。半面東京は、三代続いた江戸っ子ならばいざ知らず、地方上がりの雑多な人種が多数蠢いて棲息していますから、軋轢を回避するために本音と建て前の使い分けがより発達した代表例ではないでしょうか。また、関西地方を眺めると、大阪や神戸はわりと本音が勝っているように思いましたが、京都だけは、まず建て前がぐっと前面に押し出されて、本音がなかなか分かりづらかったような記憶があります。とは言え、相互にもっと親しさが増幅してくれば、この問題は解消されたとは思います。
外国人が日本人の本音と建て前を分かりづらいと思う理由には、それ以前に、控え目さだとか謙虚さによるところも大きいと思います。日本人は、なかなか初対面からベラベラ喋らないですよね。昨今は、インターネットの普及や多数の外国人の訪日などにより、苦手意識も薄まり日本人としての接し方も大分変わってきたようですが、それでも長年摺り込まれてきた“癖”は一朝一夕に治るものではないです。特に、初めて日本人と接し何ら免疫のない外国人は、なおも分かりづらいのかも知れません。
ただし、本音と建て前がよく分かりづらいと指摘されても、何も改めようなんて思う必要はないと思います。おおむね日本人のそれは、人と人との触れ合いを円滑にしたいとのいわば“潤滑油”のようなものであり、決して悪意から発露されたものではありません。相手を貶めようなどとの特殊な事情や複雑な交渉事でもあれば別ですが、仮にこの先外国人から揶揄されたとしても日本人の貴重なトレードマークとしてずっと温存しておけばいいと思います。最初こそちょっと変だなと思われたとしても、やがては理解してもらえる伝統話法だと感じるからです。
日本人に脈打つ本音と建て前の機微が解からない外国人であっても、彼らは彼ら独自で建前論を語っていることが少なくありません。例えば戦後アメリカが日本に強いたいわゆる似非民主主義やスターリン共産主義革命による大粛清、また、中国で興った文化大革命による党内部の権力闘争などの本質は偉大なる建て前論の真骨頂であり、ちょっと露骨な表現をすれば、夜郎自大のご都合主義的なものであったと感じています。所詮は自己の欲望を満たすための手段は選ばない代表格でしょう。現代においても「核なき世界」・「銃社会根絶」を謳うアメリカ、一党独裁による専制を顧みることなく「アメリカの新孤立主義を非難」する中国、「共産主義(平等な理想社会の創造)思想」を掲げながらも“世襲゛を恥じない北鮮、過去ばかりに拘り現在を無視して「未来志向を希求」する韓国、自国の防衛費は増大なるも「日本軍国主義が復活している」と声大に喧伝する中国・南北朝鮮(もっともこれは、日本の一部左翼層も同調しており恥ずかしいから、やや小声にしておきます)などこれらの言動は皆、本音と建て前が倒錯している典型的な事例です。
これらのことからすれば、日本人の建て前などは大層お茶目で可愛いものです。そもそも建て前の “建付け(=根源)゛自体が異なっているのです。何と言っても、のっけから他者を奈落へ蹴落とそうなどとの傲慢な発想自体が微塵も感じられません。
やはり心の根底に、「“和の心”が息づいているからだ」とひそかに自負したいものです。