【Long ago, Battle of shumshu 】遠い戦争 - 占守島の戦い -


満州 東鶏冠山から旅順港口を望む
■遠い戦争 占守島の戦い - Long ago, Battle of shumshu -
年明け早々からロシアとの北方領土交渉が騒々しくなっています。四島(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)一括返還は絶対無理であるとか歯舞群島と色丹島の二島だけとか二島プラスαだとか、いや、マイナスαだとか平和条約締結云々と相俟って政府がちょっと動くたびに、ここぞとばかりに色々なコメンテーターがメディアを通して勝手放題の持論をまくし立てています。 そもそも1875年の千島・樺太交換条約により樺太(ロシア名サハリン)全土をロシア領とする代わりに千島列島全土が日本領となったのですが、日本が1951年のサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島(ロシア名クリル列島)に果たしてこれら四島が含まれるか否かで、今日まで双方の火種になっていることは説明を俟ちません。もっともわが方は、四島については前述の交換条約締結以前よりすでに日本領であったとの立場を一貫して取っており、したがって列島放棄後の現在においても、国際社会に対しこの四島は日本固有の領土であると宣言していることは周知のとおりであります。
今ではかなり下火となりましたから昨今の若者にはピンとこないかもしれませんが、1990年頃までは東京、大阪、神戸、福岡といった主要都市において多くの右翼団体が「北方領土を返せ!」と街宣するのが定番であり、当時の僕なども否応なくこの領土問題の根幹について書籍を捲って調べたことがありました。また少し反れますが、『北方』との関連で言えば、1943年アリューシャン列島に属するアッツ島で米国により日本軍が玉砕したことやキスカ島から守備隊が無傷で撤収したことなどは、当時の戦記書物を読めば容易にその詳細を調べることができます。さらには、1945年樺太においてロシアの暴挙により郵便局の電話交換手が集団自決した真岡郵便電信局事件は、『樺太1945年夏 氷雪の門』のタイトルで映画化もされましたから、いつか若い時分にテレビ放映で見た記憶が残っています。
扨て、僕がこの章のタイトル『占守島の戦い』を初めて知ったのは2010年に発刊された浅田次郎氏著『終わらざる夏』を読んだことによります。ただし、読んだのはその文庫本でしたから確か2013年頃だったと思います。なお、中・高校時の教科書や大学受験の参考図書で学んだ記憶はまったくありません。おそらく先生も知らない内容だったろうと思います。 後からわかったことですが、占守島の戦いに関する著書については、主に1966~1980年にかけて編纂された公刊戦史『戦史叢書』(せんしそうしょ)に頼む以外にはなく、また、民間本では池田誠氏著1997年『北千島占守島の五十年』あたりがこの種の初期本に近いようですから、80年代に血色盛んだった僕はおろか当時の行動右翼にしても事実の顛末が広く知られることなど到底覚束なかったわけですね。戦争本として沖縄戦や満州における惨状については随分昔から嫌と言うほど書物が乱立していましたから、巡り合わせとは言え本当に不可思議な現象ですね。軍部の機転により缶詰工場で働く400人とも500人とも言われる女子工員を含む総勢2,000人の民間人のほとんどが犠牲にならなかったことも、話題にならない原因のひとつではなかったかと思います。世間は、軍部だけの称賛には逆に冷淡ですからね。とにかくこの『終わらざる夏』を読み終えた時になにか胸中揺さぶられる想いがフツと沸き上がってきたことだけは憶えています。日本人には是非心に残しておいてもらいたこの大切な出来事を、この機会にちょっとだけ触れておきたいと思います。
1945 年8月時点の北千島日本軍守備隊は、第91師団を基幹部隊とする総勢23,000名の将兵がおり、その内占守島には第73旅団と戦車第11連隊を軸とした8,000余名が配備されていました。取り分けこの戦車第11連隊(通称;士魂部隊)は、もともと1940年に満州国東案省で編成されましたが、その後対米戦局の悪化に伴い1944年に北千島方面へ移送され、絶対防御の最北端配置となりました。中型・軽型戦車を合わせて64両保有し、屈強・壮健な将兵がまったく無傷のまま1年以上もこの国防線を守備していたわけです。アラスカからアリューシャン列島、カムチャッカ半島を経て千島列島、北海道へ至る北方航路はアメリカと日本本土をつなぐ最短ルートであり、しかもロシアとは対面で国境を近接していることから、この方面はソ連・アメリカ双方を睨む重要な防塞地域でした。半島最南端ロパトカ岬と占守島の海面幅はわずか13㎞しかありません。朝鮮半島南端と対馬との距離が約50㎞、また沖縄諸島とマニラ(フィリピン)の距離は1,000㎞以上もあり、この13㎞がいかに危険を孕んでいたかがわかります。
8月15日天皇の詔勅により、時の師団長から以下の訓示がありました。
◇ 18 日16時をもって停戦とする
◇ 軽挙妄動は慎まなければならないが、やむを得ない場合の自衛戦闘は認める
等です。
而して17日深夜になるとロパトカ砲台から砲撃がしばらく続き、また、18日未明には極東ソ連軍総勢8,000余名の先遣隊により島の東北端竹田浜から強襲上陸が開始されました。直前まで日本軍は武装解除の準備を進めていましたが、砲撃が継続して鳴りやまないことや深夜に停戦のための敵方軍吏が来ることはないとの判断から水際殲滅の一斉迎撃を開始します。暗がりの中当初日本軍は、戦闘の相手がアメリカ軍なのかソ連軍なのかさえわからずに困惑しました。加えて、15日の玉音放送で敗戦したことは皆が理解しており所詮は負け戦であると自覚していましたし、しかも停戦期限である18日16時までに決着をつけなければならない条件の下で戦ったわけですが、迎撃準備と厳重警戒を簡単には解かなかったことや持久抵抗を容易とする防御用トーチカによる砲門、くだんの第11戦車連隊の火砲によって形勢は圧倒的優位に立っていました。18日のわずか一日でもって日本軍粉砕を目論んだソ連軍でしたが、蓋を開ければ日本優位のまま戦闘は20日まで継続し降伏文書調印が21日で武装解除は23日までかかりました。17日の砲撃開始から数えて6日後、15日の玉音からはなんと8日も要したのです。
スターリン麾下のソ連軍将兵は軍命により行動したわけですから何ら罪はありませんが、とは言え大和民族を誇る日本の武人からすればこの火事場泥棒的な不意打ちは到底許し難いと奮って最後の抵抗を試みたのだろうと思います。戦果を重要視するわけではありませんが、諸説はあれども日本人死傷者1,000に対しソ連1,500名(ソ連公報)だとか600に対して3,000名、800に対し2,000名だとかの記述を目にしますから、いずれにせよ優勢のまま勝者が敗者に武装解除された日本にとって少々残念な戦闘であったことは紛れもない事実です。現代日本人の心底に「アメリカには敗れたがソ連に負けたわけではない」とのある種の反目があるとすれば、このあたりの史実にも多少の影響を受けているのかもしれません。敗戦が確定した15日未明にはこれで本土に帰れるとの安堵感からちらほら酒宴なども開かれていたとありますから、この戦火に斃れて帰郷を果たせなかった先人達はさぞや無念であったろうと思います。
また、いちいちの人物評価は省きますが、それでも第11戦車士魂連隊長池田末男大佐と第5(北海道・樺太・千島列島)方面軍司令官樋口季一郎中将の人物像にちょっと触れておきます。池田大佐はこの戦闘に際し全将校に向って奮い立ち「…それとも白虎隊足らんとするか」と尋ね「只一途に御勅諭を奉唱しつつ敵中に突入せよ、いざ我に続け」との言葉を残して率先して戦塵に斃れた第一級の軍人です。一方の樋口中将は、ソ連方面敗軍の将であり占守島の戦いも災いしたのか当のスターリンにより極東軍事裁判で戦犯に指名されました。しかし、ハルピン陸軍特務機関長時代にナチス・ドイツによる反ユダヤ政策に抗して多くのユダヤ人を救出した(いわゆるヒグチ・ルート、またはオトポール事件)ことを恩に着たユダヤ人コミュニティ-が擁護の声を挙げ、さすがのマッカーサーもスターリンの引き渡し要求に応じることを許さず身柄を保護された人物です。同じく第一級の将軍であったと思います。教科書には載らないでしょうが、どちらも日本人の記憶に留めておいて欲しい人物ですね。
『終わらざる夏』を含み大方の戦史書物には、この先人達の占守島攻防戦により南下行動を阻まれたソ連軍は当初目論んだ北海道占領という野望を果たすことが出来なくなった、との記述を垣間見ることが出来ます。結局のところはソ連による赤化を望まないアメリカの意志に寄るところが大きかったことが最大の理由でしょうが、さりとて北の最果て地において70数年前にこんな出来事が実際あって、ひょっとすると北海道が占領されるのを阻止した理由の一つであろうことを多くの日本人がよく知っておくことは大事であると思います。本土が占領されなくって本当に良かったです。ソ連(ロシア)は一度得たものは絶対に返しませんからね。
ただ何もソ連が卑怯だと罵る必要はなく、また、戦争・戦闘を単なる現代の善悪二極史観でのみ捉えて語る必要もないでしょう。現代日本人から見れば、8月15日を過ぎて強襲してきた(そもそも日ソ中立条約を破棄して8月9日未明に満州へなだれ込んできた)ソ連は心情的には許せないかもしれませんが、一方のソ連側からすれば、9月2日の日本軍降伏調印により戦闘が終結したと理解しているわけですから、今更ここを白黒言い争ってもそんな作法はまったく無意味だと思います。勿論僕自身も戦争の経験はないですが、人対人の合法的な殺戮ですから所詮負ければそんなもんだと言うことぐらいはわかります。ただ無責任な愚痴を一言だけ言わせてもらえるならば、やはりソ連(ロシア)は国家として大分信用ならぬところがあるとは感じます。まぁ、感覚の問題でしょうが。
さあ、領土に関するロシア交渉の結末が今後どのように転んでいくのか見当もつきませんが、交渉に際しこんな歴史もあったのだと少しは念頭に置いて進めてくれれば英霊に対しても幾ばくか慰めになるのではないでしょうか。赤心を込めてお願いします。
最後に、この章で僕がもっとも触れたかったことを記して終わりにします。こうして我が国の歴史を眺めて見ると、僕ら日本人は、威張るほどではないながらも先人達が築き今日まで繋いでくれた歴史をもっともっと誇って良い民族ではなかろうかと思うのです。特に軍記物は、ある種のアレルギーを持つ人間のためなのか日本では中々陽の当たらないものが少なくないですが、歪曲の必要がまったくない歴とした事実にちょっと触れるだけでも琴線を揺さぶられるものが数多くあります。東郷平八郎元帥や乃木希典大将は、いったい教科書のどの部分に隠れたのでしょうかね。
一方で周辺国には、そもそも語れるほどの歴史自体を持て(た)なかったために始終ジレンマに陥ったやに見える国や、過去に輝かしい歴史を持ちながらも歴史の過程で史実を自ら拒絶したり糊塗したりしたため、却って連続性が保てず辻褄が合わなくなった感のある国が共存します。はたして、皆さんはどの国家を選びますか?
過去を現代の価値判断で偏って彩る思想貧困者がやけに多いこの国もいささか閉口ものではありますが、それでも僕は、近代この不器用だけれども決して間違った方向へは迷い込まなかったこの文化と伝統を有する日本と言う国に生まれて、本当に良かったと思っています。