War Orphans - "戦争" 孤児 - 

満州国と満鉄ルート

8月9日以降のソ連軍侵攻ルート


■"戦争"孤児 -War Orphans- 冒頭写真は撫順炭田

僕の身内に、中国"戦争"孤児(終戦当時12歳以下の孤児)がいます。自分の意志でそうしたのではなく、時代のいたずらに翻弄された結果そうならざるを得なかったのだから、敢えて"残留"とは言わないことにします。主人公は"S"です。御年79歳になります。Sは福島県で生まれ、くだんの満蒙開拓団家族の一員として、昭和十九年に両親兄弟と共に渡満し、奉天省撫順市(現遼寧省フーシュン、州都瀋陽から東方へ45㎞ほど)近郊の或る土地へ入植したようです。S の父親は、東北電力の関連会社に勤務する電力社員で、当時、南満州鉄道が運営する撫順炭鉱で稼働する電気炉や採掘機に関わる電気技師でした。

福島県の同州送出者数は延べ12,000余名で、筆頭長野県37,000余名に続き第4~5番目に多い県です。1972年の日中国交回正常化以来、幾度かの往来を重ねて、84年頃、40歳を過ぎて正式に日本への永住帰国を果たしました。大陸では撫順市の養父母に貰われたことから、無蓋列車に乗せられて郊外から市内へ逃げ延びてきた微かな追憶をたどることは出来るそうです。ただ、その後両親とどのように逸れたかなどは、どう記憶を廻らしても出てこないと言います。その後の調査で、両親がついぞ日本の地を踏み締めることはありませんでした。

1945年8月9日からのソ連軍侵攻や、守勢する関東軍主力の南方転用を鑑みれば、多分、葫蘆島や大連辺りの港湾までも逃げ戻ることはできなかったのでしょう。。
日本民族全阿鼻叫喚のこの最中、Sは5歳になる年だったはずで、人間であればうっすらとした記憶が芽生え始める年ごろなのに、断片的な残影はおろかほとんど当時の想い出が蘇って来ないそうです。僕がこの話を初めて聞いた時、「人間は、忘れてしまいたいほどの恐ろしい記憶ならば、抑圧することで意図的に忘れることができるんだなぁ」と妙に嘆息した覚えがあります。

以来、Sは、二度と実両親の消息を知ることはできませんでしたが、離散した当時の境遇はさて置き、おそらく、比較的容易(とは言え、楽観的日本人には想像を絶する苦難がある)に帰国することができた数少ない強運の持ち主であっただろうと思います。

日本側資料によれば、終戦時の旧満州方面居留民は150~170万人で、内、ソ連参戦時の開拓移民が総勢約27万名(内、帰国できた者が約11万人、犠牲者約8万人)と言われる中、今日までに永住帰国が実現し、日本で暮らす残留孤児はわずか2,500名ほど(孤児認定数は2,800余名)です。直接戦禍に巻き込まれ斃れた子供達や飢えや病気で死亡した子供達、そして、今なお自身が日本人である事実を教えられずに、大陸の地で中国人として生きる当時の子供達などのおびただしい惨状が生じたわけですが、これらの総和から比べれば、かなりの希少であることが推定できます。ともかく、孤児の大半にとって、本人の意志とは裏腹に、永きにわたって数奇な人生が幾重にも折り重なりました。

また、居留民にとって、ソ連参戦自体が寝耳に水であったでしょうし、参戦直前にはかなりの開拓団成年男子(18歳~45歳)が補充のため軍隊に徴兵され、現地には老人・幼児・婦女子だけが取り残された状態になっていたり、錯綜しながら逃避する道すがらの圧倒的な情報不足は、何とも言えず甚大な犠牲に拍車をかけました。時代とは言え地獄絵だったと思います。

このような状況下で、Sは、

◆幸運にも鉄道沿線から汽車に乗車することができ、爆撃・爆破を逃れて撫順、奉天(瀋陽)方面へ逃げのびれたこと

◆現地養父母が、当地ではわりと裕福な家系で、強靭かつ柔和であったこと

◆混乱当時は5歳であり、引き取られた以降も、日本民族の子と教わり養われたこと(*日本人孤児が集積した難民収容所で、「賢そうだ」という理由で貰われたようです。当時、現地では、日本人(の子供)は総じてそう観られていました)

◆同じく満州へ渡った実兄と実姉がおり、実兄は命からがら逸早く一人で帰国できて
いたこと。実姉も、別の養父母によりこの地で育てられたが、Sよりも早く帰国し
ていたこと。この実兄と姉がSの所在する場所や環境を明確に記憶していたこと

◆帰国時点で、日本側には、実兄・姉に加えて、わりと裕福な親族(従妹)が生存し
ていたこと

等の現象が重なりました。

Sは、女性です。中国人養父に二人の養母の環境で育てられました。日本民族の子として育てられたために、幼少期より「小日本(シャオリーベン)」と罵られたことも数々あったようですが、苦労反面それでも、華奢な体で揚々と生き抜いてきたようです。反骨精神もあってか、そこそこ学問にも秀でていたのでしょう。現地で大学を卒業しています。過ごした撫順は、人口200万人、遼寧省々都瀋陽(旧 奉天)の衛星都市です。僕が学んだ1970年代日本の社会科教科書では、《炭鉱都市》であると教わりましたが、正直、田舎です。ここから、1960年代の日本でも大学へ進学する女性が少なかった時代にこれを実現させたことは、お国柄は違えども、当人によほど期すものがあったことは間違いないと思います。また、この「鬼子(クイツ)」である養女に対し、そこまでの庇護と教育を施してくれた養父母も、ひとかどの大人(ターレン)であったのだと思います。

例えがなかなか難しいのですが、五木寛之氏の長編小説《青春の門 第一部 筑豊編(1975年映画化)》を思い出すことがあります。時代背景は昭和20年(1945~50年)代、福岡県田川郡の筑豊炭田が舞台背景の映画です。この地で生を受け、皆に愛され育んだ主人公 伊吹信介が、やがて東京 早稲田大学へ進出し、破天荒な青春を謳歌する長編の物語です。時代も国土も人口もまったく異なりますが、筑豊を撫順(共に炭鉱都市)、博多が瀋陽か大連(共に地方大都市)、東京を北京(共に首都)辺りになぞらえてイメージしてみれば、そんなに大差はないと思います。要は、この時代にこの僻地から学問を志すためには、かなりの学力と意志と努力が必要だったろうとの想いを廻らしてみました。いずれにせよ、郷里では100人200人にひとりの逸材だったと思います。

なお、五木氏は、自身の体験ゆえ、こと満州(朝鮮)には言葉に言い表せない特別な感情を抱かれているのですが、ここでは敢えて触れません。

さらに余談ですが、今からかれこれ25年以上も前、Sが親しくする在京戦争孤児グループの中に混じって話を聞く機会が幾度もありました。結構優秀な帰国者(孤児)も複数名混じっており、特に当地での医者が多かったように記憶しています。ただし、向うでの医師免許は日本では通用しないため、永住帰国後は整体師になっていました。いずれにせよ、ワイガヤが大好きな面々が10名も集まれば、余りの声大さにこちらの居場所を失うこと必至でしたが、酒を囲んで想い出話に皆が屈託なく振る舞う姿を見るにつけ、何かほのぼのとした感じに包まれました。

Sは、中国で結婚し、4人の子を授かりました。勿論、夫は中国人です。婚姻期は1965年頃だろうと思います。今では公然の事実ですが、この時中国では66年からの10年間、毛沢東主導による文化大革命(文革)が始まりました。《造反有理(反逆には道理がある)》で一躍を馳せた、かの摩訶不思議な革命運動です。日本でも、朝日新聞をはじめとする左派系メディアが、「お隣で何かいいことやってるよ!」とばかりに礼(盲)賛、媚態を晒した悪名高き運(暴)動ですが、当の本国では、共産主義の親分たるソ連スターリンを批判するフルシチョフ的な反革命分子の摘発を掲げ、毛沢東を批判する知識人の吊し上げが巻き起こっていました。エリート層や開明派であればあるほど密告の槍玉にあがる危険がありました。案の定、Sの夫は、配偶者Sが日本民族であることや、夫の実兄がソ連通であったことを理由に密告の憂き目に合い、投獄された経験があるそうです。ちなみにS自身も、この時のシンボルであった紅い小雑誌"毛沢東語録"を、震える手で常に持ち歩いていたと言います。

1991年に刊行された山崎豊子氏のノンフィクション著書《大地の子》には、この時代の中国背景が克明に描写されており、当時、大変感銘を受けた中の一冊でした。
長野県出身の松本勝男は、7歳の時に肉親と離れて戦争孤児となり、中国人教師であった養父の愛情を背に、陸一心(ルー・イーシン)として立派に成長し、やがて大学を卒業します。しかしこの間、常に日本民族出自であるが故の差別をあちこちで受け、文革の最中には、無実の囚人として労働改造所(通称"ラオカイ")送りとなり、7年間も流浪する憂き目に合いました。

僕がこの著書を読んだのは、Sの実話を聞いた後の90年代後半(時違わずテレビドラマも視聴した後)でしたが、男か女、本人か配偶者かの違いはあれども、文革期のSと一心のまさに命を紡ぐ葛藤とが、息を呑むほどにオーバーラップして、滅法心に残りました。

その後、小説では、同じく満州で生き別れ、孤児となった実妹あつこ(張玉花)や、終戦末期に陸軍に応召されために満州を離れ、生き別れていた実父 松本耕次との再会を果たします。
この結末は、勝男(一心)が、養父が尽くしてくれた中国の地か、実父の住む日本のどちらを選択するかに苦悩した結果、《大地の子》として中国での"残留"を自らの意志で決断すると言う、まさに感動のシーンで幕を下ろしました。

一方、実在Sは、家族と共に日本を選択しました。その決断に至るまでに、どのような葛藤があったのか否かは、今日まで克明に聞いたことはありません。
日本政府主導による帰国者集団引揚事業は、終戦翌年の1946年5月から始まり、58年7月まで10年余り継続されました。この間100万人以上の居留民(引揚者)が帰還を果たしましたが、撫順の子としてすでに現地に根付いたSが知る由もありません。
翌59年には未帰還者に関する特別措置法が公布され、生死不明の未帰還者は戸籍上《死亡》扱いとされました。
引揚事業は集団から個別へと切り替えられ、以降も細々と継続はされていましたが、転期は72年9月、時の田中角栄政権による日中国交正常化により拍車がかかることになりました。

Sとその周辺関係者も、73年以降急速に動きが慌ただしくなります。4人の子供を含め、家族皆が円満に当地での社会生活に溶け込み、何ら不自由のない生活を送っていたのですが、すでに日本側には帰国を待つ実兄弟や親族が現存することが判明しており、身元特定の訪日調査も然程困難ではなかったようです。なにより困難でなかった最大の理由は、やはり幼少期からの養父母による「お前は日本人の子供だよ」との、愛情溢れる養育方針が大きかったのだろうと思います。出自の違いを宿命として生きて来たがゆえに、これまで色んな場面で差別も味わいましたが、この瞬間ばかりは反って功を奏したわけです。

とは言え、養父母側にもかなりの葛藤が生じていたことは想像に難くありません。痩せこけて今にも死にそうな5歳の娘を引き取り、これまで我が子同然に手塩にかけて育ててきたのです。言葉(漢語)を覚えるために幼稚園へ通わせ、周りに苛められれば烈火の如く怒り、病気になれば寝るのを忘れて看病し、初・中等教育を惜しまず、大学進学を後押しし、適齢期になればソワソワし、盛大に婚姻を祝い、孫が生まれれば溺愛し、決して血の繋がらない養娘を実子以上の愛情を注いで包んでくれた養父母であったと聞きます。本心は相当に辛い決断だったろうと思います。

永住帰国への後押しは、家長である夫の「皆で行こう!」が決め手となったそうです。夫の日本に対する好奇心が心を揺さぶったからだと聞いたこともありますが、やはり、自分の妻たるSの淡い望郷の念や、子供たちの年齢や生活環境、自身の日本社会における相応の覚悟らを総合的に判断し、最後は背中を押したのではないでしょうか。

子供達の中には、当初、帰国に消極的な者もいたようです。長女と次女はすでに10歳を越えており、子供ながらに状況判断能力は持ち合わせていたでしょうが、長男、三女はまだその年齢域ではなかったと思います。
また、Sから見れば明らかに"帰国"になるはずですが、夫や子供たちにとっては、突然の"海外移住"と言っても過言ではありません。歴史に翻弄されながら、平々凡々の普通びとには計り知れない、期待と不安が入り混じった瞬間であったことは間違いありません。

1984年、ついにS家族の6人は日本の大地を踏み締めました。
すでに国交が回復して10年以上が経過し、この間、日本国政府による帰国旅費の負担やら帰国後の住居や教育支援等の受け入れ態勢も徐々に進み、高みを望まなければわりと快適な日常を送れたようです。厳密には、受け入れる日本側親族の物理的かつ精神的な援助が沢山あったことには違いありませんが。

Sおよびその夫の子供たち4人は、皆、日本において至極真っ当に成人し、結婚しました。
現在、子供たちの子供、すなわちSらにとっての孫は総勢9人も誕生しています。
辛うじて、ひ孫はまだ居ませんが、それでも孫9人の内5人はすでに成人を迎え終えました。はぐれ者は一人も居ませんし、皆総じて仲良しで笑顔が絶えないファミリーです。

帰国してからも、Sは毎年のように養父母の、そして自身を育んでくれた故郷に向けて、いつも両手いっぱいの土産を携えて訪れ、精一杯感謝の念を表意していました。これは、命を懸けて幼き自分を守ってくれたかけがえのない養父母が、天国に召す最期まで片時も外すことなく繰り返されました。

一方、夫は、今日まで国籍を換えていません。永住帰国の際、同時にSならびに子供たちは皆、日本国籍を取得しました。夫も勿論選択することが可能でしたが、自身のみは、日本社会において中国人として生きることを選択しました。頑固と言えば頑固かもしれません。が、それで良かったろうと思います。僕には、こんな人生を送れる勇気も気概もありませんが、もし、万一同じ境遇になれば、おそらくそのように振る舞っただろうと思います。

今さらながら、二人を見て、波乱万丈の人生を送ってきたもんだなぁと、つくづく感心させられることしきりですが、二人が日本へ帰って来たこの一点だけを客観的に評価すれば、《結局、損したんじゃない!?》と思うこともあります。
そのまま大陸で社会生活をしていた方が、それなりの地位でもって一生を大過なく、満帆に過ごせたのではないかとも思うのです。

子供たちの"いしづえ(礎)"を築きたかったのかもしれません。昔、自分たちがそうされて来たように、大事に、、、大事に。
今日、受け継がれた孫たちとほんわり接する姿を見れば、「今では、それで良かったのだ」と、人生すべてを達観したように見受けます。全体的にはよくまとまったのだの思います。

これで終わりです。

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