【Interrelation of philosophy and expertise 】経営の哲学と専門性の相互関係

上高地から穂高連峰を望む

 

 

経営の哲学と専門性との相互関係

この世の中、1万人企業の経営者であれ100人企業の経営者であれ、皆、なにがしかの『経営哲学』を持っている。何も天下の松下幸之助さんだけが身につけられたものでもないだろう。両者の違いは、会社が大きくなり万民の知るところとなり、皆が「俺もそうありたい」と尊崇に至った人物か、誰にも知られることなく黙々と働き、身内に愛されながら静かに引退して行った者であるかだけである。ここで、どちらが偉いかなんて考えても意味がない。

さて、本題は100人企業の経営者のこと。100人の体制を創るまでには、相応の年月と相当の苦労を掛けたはずである。事業を拡大成長させるために、明けても暮れてもそのことだけに一念し自らの『経営哲学』を積み上げてきたはずだ。体系的に整理されたものではないが、体を張った言わば我流の『哲学』である。ところが今日のある時、今まで創り上げてきた組織の中から自身が理解に苦しむ難語が多発される。これが、ガバナンスであったり、コンプライアンスであったり、内部統制であったり、少なくともこの日本では、90年台初頭まではあまり聞き慣れなかった言葉である。100人の社員がいれば、10人や20人の管理部隊がいる。ある意味で企業管理の専門部隊である。この自称専門家たちのバックボーンは法律である。民法、会社法、金融商品取引法、各種税法、はたまたここ十数年で個人情報保護法なるものも出没してきた。民法は所謂《基本法》であるから、日本人経営者であれば感覚的に理解している。「人のものを盗めば罰せられる。」「借りたものは返さねばならない」、である。しかしながら、会社法以下云々となってくると相当に難解である。しかも、経営者が対峙する説明者はいつも「かくあらねばならない」と紋切り口調で攻めてくる。当初は「そんなもんかな」と聞き入れてきた経営者も、やがては「そんなもの経営に必要?」「面倒くさいな」と思い返し、いつしか説明内容の無視を決め込む。聞いてもわからないし、自身の『哲学』では割り切れないからだ。しかしながら、事業が拡大している内はまだしも、うまく事が運ばなくなり出すといよいよ厄介となってくる。放っておくと相互の“溝”はますます深くなり、最後には亀裂が生じ、抜き差しならない状況に陥る。

この相互不信を払拭する手立ては思いの他簡単である。まずは原点回帰。会社機能をゼロ・ベースに引き直し、創業の精神に立ち戻ってからもう一度「経営・事業に必要なもの」を再構築して行けば宜しい。言うのは簡単、と思うかもしれないが、経営者はまず、自身が培ってきた『哲学』(=理念)を本音で皆に語り、経営の観点から業務の優先順位や処理基準を箇条書きしてみると良い。それから、記述した各種法律に関しては「なぜ、その法律を遵守しなければならないか」「なぜ、そう処理しなければならないか、」そもそもの精神(目的)を問うてみる。何もあからさまに脱法行為をせよ、と言っているのではない。要は、担当者に対し、『経営(者)の視点』を問うのである。担当者は、経営の視点から業務を遂行することに慣れていない者が多い。しかも専門性をより高く追求している者ほど余計な手続き論に拘り、その傾向は強い。ましてや処理する業務内容に関する説明は、下手くそな者が圧倒的である。前途有望ではあるけれども経営センスを兼ね備えた者は少ない。この時点で経営者がまずやらねばならないことは、各管理部隊が日々遂行する業務に対し、自身の経営的な『哲学』を吹き込み、見方や考え方を原点に立ち帰って問い直すことであろう。

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