【Memory, My Old Home Town】- 故郷の想い出 -

飯盛神社 福岡市

故郷 - Old home town -

■ 故郷の想い出 - Memory, my Old Home Town -

生家前にはまだ舗装もされないデコボコ小道が連なり、その沿道には小さな川が流れていました。太陽を浴びてキラキラと光るサヨリの大群がいっぱい泳いでおり、川はとても澄んでいました。地名は伊崎、川の名前は黒門川。今は大半が暗渠で、表面は大通りになっているため、昔の面影はまったくありません。何でも1989年にこの地でアジア太平洋博覧会が開かれた際に、会場へのアクセス道路として整備されたようで、現在は黒門川通りと名付けられています。隣地には妙法寺と言う日蓮宗の寺があり、その境内によく大蟻を捕まえては喜んだ記憶が過ぎります。小川は、干潮になると時折河川敷が現れて、一度ここで遊んでいた折に母親からこっぴどく叱られた記憶も鮮明です。

向う岸へ橋を渡り、丘陵地を少し登れば西公園へと行き着き、夏になれば父親の手を頼りながら蝉取りをした記憶が蘇ります。デコボコ道を北に進めば幼児の足でも容易に防波堤に突き当たり、堤の目先には玄海を睨む大海原がありました。川を南手に進めば藩外濠(現 大濠公園)の黒門に突き当たり、手前の唐人町商店街に連れられて母親から飴玉を買い与えられるのをいつも心待ちにしていました。いずれも僕が3~4歳までの記憶だからとても断片的ですが、当然ながら何の悩みも憶えず潮の香を感じながら奔放にスクスクと育ちました。

幼稚園へあがるちょっと手前で、少し内部へ引っ越しました。地名は西田町、伊崎と同じく近くには川が流れていました。七隈川。この川の想い出はヘビと蛙と下流の沢ガニ。どちらも園児にはまだ恐怖の生物でしたから、近所のお兄ちゃん達の陰に隠れてその死骸を竹竿なんかで突っついて興奮していました。家の周囲は田んぼだらけでいたるところに小さな用水路だとか小溜池があり、オタマジャクシと戯れたり、網でカエルを捕まえたりザリガニ釣りをしたり、危険を顧みず色々と工夫を凝らして遊びました。柿やビワ、イチジクはその辺りの木に登って取り放題、稲の刈入れ時期になれば、積まれた藁で基地を作ったり、時にはマッチで火を焚いてたいまつ遊びもやりました。お百姓さんから大して怒られた記憶もありませんから、今では想像もつかないくらい勝手放題の時代だったのでしょう。

近所にスーパーマーケットが建ちはじめたのもこの頃で、僕は草ヶ江という土地のマーケットで初めて万引きで捕まってしまいました。僕はそのままでしたが、指南役の近所のお兄ちゃんは半ズボンのポケットに穴を開けてそこから指を突き出して盗む特訓を行った結果でした。捕まる数日前には、店の裏手に積まれたリンゴ箱の中からリンゴを1個盗んだこともあります。とにかく、幼稚園児で補導されたって、いかに早熟だったかですね。

団地の前には博多駅から姪浜へ延びる旧国鉄筑肥線が線路剥き出しで走っており、拾った釘を線路上に置いては潰して楽しんでいました。おそらく時速30㌔とか40㌔でトロトロ走っていたんだと思います。さほどの恐怖感はありませんでしたが、たまに犬や猫が半身で横たわっているのを見たことがあり、この時ばかりはギョッとしながら仲間とゾクゾク騒いでいました。

くず鉄を拾い集めて近所の屑鉄屋に持って行くと5円貰えた時代でもありました。この5円をもって喜び勇んで駄菓子屋に行けば、ガラスの菓子瓶に煌めくアメ玉が10個買えたのです。頬がとろけるほどに美味しかった。また、腹が減っていないときはビー玉を買ったりしていました。小さなものが確か1個1円、大きなもので3円か5円くらいではなかったかと記憶しています。さらに嬉しかったのはポンポン菓子。これは、どこぞのおじさんが近所の空き地へ穀類膨張機を乗せたリヤカーを引っ張ってきて、各々が持参した米に少量の砂糖を混ぜてポン菓子に加工してくれたものです。代金はいつも母親が払っていましたので、20円とか30円とかだったのではないでしょうか。

そうそう、ロバのパンなんていうのもありましたね。これは、ライトバンに乗って行商のおじさんがパンを売りに来るのですが、「チンカラリン」と車から流れるテーマソングは今でも口遊むことができます。その他、当たりくじ付きのチューイングガムや三角パックの甘納豆が1個5円、おまけつきグリコキャラメルが1個20円くらいで、包装を開ける時は「おまけは何かな?」といつもワクワクしていました。

バスで10分程度のところに西新という繁華街があります。ここには当時スーパーマーケットも数店舗ありましたが、何と言ってもリヤカー部隊(*リヤカーに魚介類や野菜類を乗せて販売する露天商たち)で賑わうことで有名でした。母親に手を引かれながらよくお手伝い名目で買い物へついて行きましたが、キャラメルやら飴玉、煎餅を買って貰って嬉しかった記憶が蘇ります。
この地でピカピカのランドセルを背負って小学生にあがりましたが、三か月と経たずに引っ越してしまいました。

今度はさらに内陸へ進み、南手の山の麓付近が住まいとなりました。湾から直線距離で5㌔程度、山の名を油山と言います。時は昭和40年代の高度経済成長真っただ中であり、ここも小学校新設による転校で小学1年生を2校経験しました。先の小学校から数えて小学1年生を通算3校経験する羽目となり、刹那愚図って登校拒否気味になったこともあります。この地で高校を卒業するまでの10年ちょっとを過ごしましたので、今となってはここが僕の真の故郷であり、また精神のみなもととにもなっています。

引っ越したばかりの時は、近所にも十分な田畑や山林、池があり、春になれば菜の花畑に舞う蝶を網で捕まえたり、夏は川端の桜の木に停まる蝉やクヌギ林に生息するクワガタムシを捕獲したり、川に入ってアメンボを追い回したり、秋になれば池にフナ釣りに出かけ、冬は山に登って草スキーをしたり雪が積もれば雪だるま造りに奔走したり。玄界灘から吹き付ける北風は冷たく、市の南手にそびえる山麓にぶち当たり雪を降らせることは何ら珍しくありませんでした。東京で生活し始めた際に「東京(23区内)は郷里ほどには雪が降らないなぁ!」と妙に訝しがった記憶があります。

小学生の高学年になれば、自転車という移動手段を使ってさらに行動範囲が広がりました。ドチビだった僕が幼稚園時初めて与えられた自転車(チャリ)はなんと24㌅で、尻は真っ赤になり手足は傷だらけで何とかマスターしましたが、それ以降はどこに行く時もよき相棒でした。4年生時には丸石の26㌅5段変速、方向指示器が付きに変り、釣りは池からやがて海に代わり、船に乗って島に渡ったり、陸をつたって別の島に出たり。距離にして片道20㌔ほどはあり、今更ながらよく飽きずにこぎ続けたと思います。仲間うちで繁華街へも繰り出し、百貨店や映画館、スポーツショップなどへ足を運びました。ここらは片道5~6㌔程度のところにありましたが、この程度の距離であれば小学5、6年生ともなれば楽勝~でしたね。思い立ったら皆、悩むことなく「えい!」と一気に走り出すといった感じでした。

運動もよくやりました。僕たちの世代は、スポーツと言えば野球以外にはぱっとしたものがなかった時代でしたので、ご多分に漏れず草野球にのめり込みました。小学生2年生時には早くもクラスでチームめいたものが出来上がり、途中でクラス替えはあったものの6年生まで途切れることなく続きました。グラブとバット、ボールはいつもチャリと対で移動しており、普段は小学校の校庭が多かったですが、空き地を見つけてその時メンバーさえ揃っていれば、すかさず対戦が始まりました。また、地元には往年を過ぎたとは言え立派なプロ球団もありましたから、球場へもよく足を運びました。とっくの昔に姿は消しましたが、その名を平和台球場と言います。勿論、テレビやラジオでは毎日のように中継をやっており、飽きもせずグラブを片手に観戦していました。

こんなにキチガイ染みた野球熱も、中学に上がる頃にはプツッと途絶えましたがね。理由は、僕が進学した中学はおろか高校にも、なんと野球部だけがなかったのです。この話をすると、今でも知人から「変な学校選んだね」と、よく皮肉られます。特に関東や関西の大都市圏において、野球部のない中・高校がいかに珍しいかということを随分あとになって知ることになりました。

さて、4年生から6年生にかかる約3年間は柔道もやりました。地元近くの団地の集会場広場に、開催日となれば皆で畳を敷き詰めて、週に2回ほど通っていましたが、指導者は5~6人、生徒はいつも50~100人の大所帯でした。確か、茶帯まで締めたと思います。6年生時には学校選抜でミニバスケット大会が挙行されることになり、ここで初めてバスケットボールなるを学びました。

勉強以外はやたらとおもしろく、何をやるときもその瞬間はテッペンを目指そうと必死でしたね。性格的にはわりと凝り性だったのだと思います。たた、所詮は指導者のいない子供の独りよがりですから、いずれも限界はすぐに来ましたけれども。

野球部のない中学校に入って、最初に始めたのもバスケットボールでしたが、この頃でも十分なチビ(ドチビは卒業していましたが)であった僕に課される練習は来る日も来る日も球拾いと声援のみで、意気地が続かず程なくやめてしまいました。次なる試練はサッカーにバトンタッチされましたが、これも大して燃え尽きることもなく高校終了時までだらだらと続いてしまいました。チーム成績は、確か中学が近隣の5~6校中5~6番手、高校が市内Ⅰ部リーグ6校中の5,6番手乃至はⅡ部リーグの1,2番手だったと記憶しています。全部でⅳ部リーグ30校程度はありましたので、ランクで言えばまぁ上位の部類ではありましたが、九州大会予選ともなれば3試合目くらいであっさり負けていましたので、所詮はそのレベルでしかなかったことは確かです。

一方、学問の世界で一角を目指すことはサッカー以上にあっさりと諦めており、代わってオートバイに熱中し色んな所へ当てのない徘徊をしていました。相棒バイクの名はホンダのCB 500 FOUR という4本マフラーの可愛い奴でしたが、マフラーの先端を五寸釘でボコボコに開けたりしてバリバリ音がすごいものだから、母親からは「近所迷惑だから、夜中は手で押してこい」と懇願されていました。市中はもちろんのこと、東は関門海峡トンネルを越えて本州へ一歩出たり、西は長崎の西海橋や佐世保へ釣りに行ったり、南は熊本から鹿児島へ下って宮崎・大分経由で九州を一周したりと懐かしい思い出があります。受験勉強そっちのけで夜な夜な相当走り込みましたから、何のために高校へ進学したのかとの意味すら曖昧なありさまとなりました。しかしながら、あの時代でしか経験しようのない貴重な数々の一ページは、今でも色褪せず大切に記憶に残っています。若かったから何でもやれたし、また、どうにでも出来るといつも信じた時代で、苦悩もそれなりにいろいろあったのでしょうが、いつも楽しさが勝っていたから、よく思い出せません。

ただ一点苦痛(と言うよりガッカリ)だったのは、山への遠足が何時でも『油山』だったことでしょうか。小学校より、中学校より、高校よりも自宅からの方がより近い山、思い立ったらチャリで良く登った山、自由で勝手知ったる山、展望台からは街並みや湾が一気に一望できる母なる山に、何故、隊列を組んで不自由に登るのかが、当時の僕にとっては理解しがたい苦い記憶として今でも残っています。

以上が、僕が体感し、今になっても記憶に残る故郷の情景ですが、この舞台は東京からはるか西南へ下った福岡県福岡市です。博多の港は古代より中国大陸や朝鮮半島との交流の窓口として栄え、周辺には外国使節を迎賓する鴻臚館や太宰府政庁が置かれました。豊かな水運が発達し、明治以降は筑豊などの石炭を基にして、本州と九州を繋ぐ要衝でもある北九州市には八幡製鉄所が建設され、近代日本の経済発展を大いに支えてきました。

市中を見渡せば、中央からやや東手に博多、西手に福岡の都市がそれぞれ栄え、ここを中心に東区、博多区、中央区、南区、西区(西区は現在、さらに城南区、早良区、西区に分割)に政令指定されたのが昭和47(1972)年、市人口が100万人を突破したのが昭和50(1975)年、さらに5年ほど前には150万人を突破し、今なお増加傾向にあるようです。僕がこの地で育んだ既述の時代は、まさに80万人に達し100万を超えて120万人へ爆増する頃と符号したわけですから、そりゃあ小学校は乱立するは田畑や林は根こそぎ宅地化されました。今や市街区には空き地などはめったに拝むことはできません。

九州にありながら北の海(日本海)に面し、夏はクソ暑く冬は底冷えする都市。百道(ももち)に立するタワーに昇り、北を向けば眼下に博多湾、そこに浮かぶ能古島や志賀島がくっきり見え、東方には天神や中洲川端の繁華街、南手には油山や背振山、ちょっと西には飯盛山や雷山などが望めます。

花の都東京からは新幹線で遥か1,000㌔以上も離れた九州の一角(*東京~函館は約800㌔)にありますが、物価はより安く、食が新鮮豊富で経済都市、夜の歓楽街があり、プロ野球観戦が可能、しかも島へも渡れ、山も近く文化遺産にも話は尽きない。夏ともなれば同じ場所から、今日は海水浴、明日は登山・キャンプ・BBQと海なり山なりをいとも簡単に選ぶことが可能です。

「ふるさとは遠くにありて思うもの」とはよく言ったものですが、遥かなる時を経た今、こんなにも風光明媚な人情都市に、一時であれ多感な時代の身を任せられたことをラッキーであったと唯々感謝しています。ちょっと唯我独尊の自慢めいた話で失礼しました。

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