【History of the Heisei era】- 平成時代を紡いで -

観世音寺 梵鐘(国宝)太宰府市[/caption]

平成時代を紡いで - History of the Heisei era -

昭和生まれの僕は、これまで実生活の中では敢えて元号ではなく西暦を使用するように心掛けてきました。これは何も元号を否定するものではないのですが、学生時代は世界史との比較において、社会人となっては諸外国とのコミュニケーションのために、その方が手戻りが少なく利便性を優先するための手法でした。平成も終焉に近づいた今、僕に纏わった平成の世の出来事について国内外を交えて元号で振り返ってみようと思います。

まず、何はともあれこの間軍事を伴う紛争がなかったことは日本国民にとって唯一の幸運でした。昭和の前半約三分の一は戦禍に明け暮れた時代でしたから、この暗い時代を知らず後半三分の二から平成に掛けて人生のエネルギーを発散できた世代はまことに幸せだったと思います。

しかしながら、一方の重要課題である日本経済はどうだったかと言うと、平成元(1989)年12月末の大納会で3万8,915円まで上昇した日経平均株価は翌2(1990)年から下落し始め、3(1991)年3月にはいわゆるバブル崩壊現象が誰の目にもはっきりと見て取れました。忘れもしませんが、元年の大納会時には証券業界のお歴々が、「来年の大納会時点の目標平均株価は50,000円だ!」、とまことしやかに宣っていた時代でした。同時に、平成2年3月よりスタートした総量規制(*不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えるとの大蔵省主導による行政指導)も足枷となり、加速度的に崩壊の一途を辿りました。

また、この一環として忘れられない記憶は、元年5月時点で年率2.5%だった公定歩合が翌2年8月には6.0%まで何と3.5%も引き上げられたことです。1年ちょっとでこれだけ金利が上昇すれば、どんなにまともな人間だって干上がりますよね。加えて、元年4月に初めてお目見えした消費税3.0%もかなり衝撃的でした。元々、昭和60(1985)年9月に開催されたプラザ合意に起因する米国主導の円高誘導策により誘発された証券・不動産バブルの勃興は、時の金融政策者による着地の失策によりわずか5年かそこらで終息し、以降20年が失われた悪夢のような事実は周知のとおりです。

一方、この間の国際情勢はどうだったかと言いますと、国内が以上のような未曾有のドタバタ連鎖であったためについ見落とし勝ちですが、中国では元年6月に天安門事件、独逸では元年11月にベルリンの壁が崩壊と同時に東西冷戦が終結、東欧ではチェコスロバキア革命やルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊と続き、とうとう3年12月にソビエト連邦(現ロシア)が崩壊しました。一方、中東でも、2年8月にイラクが急遽クウェートに武力侵攻し、翌3年1月には空爆が始まりついに湾岸戦争へ突入しました。僕の肌身感覚で言えば、この戦争状態がバブル崩壊の追い風となり、当時勤めていた金融会社での職務代えに始まり、やがては転職を余儀なくされるところまでに陥りました。いずれにせよ、これら平成の世のスタート2~3年間は、戦後45年程続いた旧体制(*共産主義体制は延べ70年程)が国内外共に一変し、価値観や絵図が変わった瞬間でした。今思い出せるだけでも、歴史的な変革時期であったことがわかります。

以降、社会問題に目を向けますと、平成7(1995)年3月には東京地下鉄サリン事件が起こり、カルト宗教オウム真理教による凶悪犯罪が明るみに出るところとなりました。3月20日当時僕は、日本橋兜町に勤務していましたが、始業間もなくパトカー・救急車のサイレンが鳴りやまなくなり、周辺が騒然となりました。抜き差しならぬ雰囲気を察して堪らず会社のテレビをつけ皆で食い入るように見ていましたが、近くでは日比谷線築地駅や小伝馬町駅、その他丸の内線やら千代田線まで被害は拡大し、東京1,000万都民が総じてパニックとなったことを鮮明に思い出します。戦後、信教の自由を盾に戯け、緩むに緩んだ日本人の歪んだ危機意識が、一瞬にして崩壊した瞬間でした。

また、昭和末期から平成元年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人(宮崎勤)事件(幼児4名殺害)、平成9(1997)年に発生した酒鬼薔薇事件(児童1名殺害)などの猟奇殺人や平成13(2001)年の大阪教育大学附属池田小学校事件(児童8名殺害)、平成20(2008)年の秋葉原通り魔事件(通行人7人殺害)などの無差別殺人事件が世間を震撼させましたが、各々すべてが先進を行く米国を彷彿とさせる抜き差しならぬ時代に突入したことを予見させるおぞましい事件でした(合掌)。すでに2児を授かっていた僕も、それぞれの事件が他人事では済まされず、我が身にも降りかかる恐れがあることを妙に自覚した時代でした。

加えて、日本人として最も忘れてはならない事実は、何と言っても震災被害の甚大さでした。主だったものだけでも、平成3(1991)年長崎雲仙普賢岳噴火に始まり(土石流による死者40余名)、平成5(1993)年北海道南西沖(奥尻島)地震(津波による死者200余名)、平成7(1995)年1月には悲惨な阪神淡路大震災(死者6,400余名)と続きました。僕はこの神戸の惨状を当時東京所在の会社のテレビでリアルタイムに知りましたが、社会人のスタートが神戸市であったこともあり、かつて走り回った阪神高速が倒壊し、三ノ宮のビルが崩落した光景をまざと見るにつけ、唖然と涙がとまらなかった記憶があります。

さらに、平成16(2004)年には新潟県中越地震(死者60余名)、翌17(2005)年福岡西方沖地震(負傷者1,000余名)、19(2007)年には中越沖が再発生し、平成23(2011)年に起きた戦後最悪の東日本大震災(行方不明を含む死者18,000余名)は未だ現代に生きる皆の記憶に鮮明に焼き付いた悲惨な光景です。これで終わるどころか平成26(2014)年には御嶽山が噴火(登山客犠牲者50余名)し、平成28(2016)年熊本地震(死者260余名)、平成30(2018)年西日本(広島・岡山)豪雨(死者220余名)と今なお留まるところを知りません。

こうした天変地異が起こる都度に深まる日本人の絆の強さや、はたまた自衛隊・消防・警察・ボランティアなどの弛まない奮闘努力には頭が下がる思いでいっぱいですが、さりとてこうして思い返すだけでも身震いするほどの平成期災害日本列島は、唖然とするほか仕方がありません。言葉に言い表すすべが見当たらないと言った状態ですね。

僕ら昭和生まれの世代にとって、これまで大正12(1923)年に発生した関東大震災(南関東中心に発生した震度6地震 犠牲者10万人以上)や昭和34(1959)年に上陸した伊勢湾台風(紀伊半島・東海地方に被害を及ぼした台風 犠牲者5,000人以上)などが比喩の代表格でしたが、メディアが発達した今、特に、前述阪神淡路大震災や東日本大震災は、過去を越えた忌々しい平成の記憶として現代日本人の心に残り続ける光景であることは疑いの余地がないでしょう。

こうして改めて平成期を眺めてつくづく感じることは、「戦争が無かった平成の世は、果たして昭和よりも俄然幸せだったか?」と言うことです。確かに述べ300万人以上の犠牲者を出した大東亜戦争が悲惨極まりなかったことは事実でしょうが、さりとて戦禍の中から這い上がってきた日本人は、その後色んな意味で権利や立場を勝ち取り、世の動きと共に右肩上がりで成長することが出来ました。一方、平成は総じて多方面に閉塞感が蔓延し、特に昭和後期から平成生まれの若者は、社会人としての指標が未だはっきりと定まらない者が多いのではないでしょうか。いつの時代も夢を見ることは無限ですが、平成は夢よりもまず、目の前の現実に躓くことが多かったように思います。

さりとて、これからの将来ある人間は自分の時代を選ぶことはできません。
昭和に生まれ、昭和と平成の違いを肌身で感受してきた僕らの世代が、令和に生きる次世代のために少しは役立つことができればいいと、考えさせられる今日この頃になりました。

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