【Line function and Staff function, Mainstream or Branch】ラインファンクション/スタッフファンクションと本流、傍流 

八ヶ岳から富士を望む

ラインファンクション/スタッフファンクションと本流、傍流 ‐ Line function and Staff function, Mainstream or Branch-

ものの本には概ねこのような説明書きがある。

◇ラインファンクション; 業務の遂行に直接かかわる機能で、階層化されたピラミッド型の命令系統を持つ

◇スタッフファンクション; 専門家としての立場からラインの業務を補佐するが、ラインへの命令権を持たない

◇本流;主となっている流派。主流

◇傍流;主流(本流)からはずれた流派や系統

僕の社会人々生は、のっけは傍流でスタートし、そしてやがては本流に返って来ることが多かった。最初に入社した食品会社は、花形部門の製粉部はかすりもせずに、ドサ回りの食品部への拝命を受け、しかも東京本社ではなく大阪支店のさらには傍流兵庫県担当だった。瞬間明石市の兵庫出張所に身を置いていたことさえある。ここは3年間でお払い箱となり本流への道は断たれたが、次なる金融会社でも同じことが起こった。本流の証券営業部は1年間の修行で追放され、当時姿恰好すらなかった不動産営業部を立ち上げる羽目になり、四苦八苦もがき苦しみながら漸く軌道に乗せたと思った矢先、バブルとやらが弾けて元の木阿弥となった。ここが今の自分のターニングポイントとなった。すなはち、冒頭の定義に基づき事業部系をラインファンクションとするならば、僕はこの時淡くではあるが、消えゆく事業を補佐するスタッフファンクションに転身したのである。経理・総務機能をもつ管理部であった。やがてはラインそのものが溶けてなくなり、手段としてのスタッフがラインにすり替わり、そしてとうとうやる術もなくなり、辞めた。

次なる会社は、電子デバイスの開発・製造・販売会社であったが、ここで初めてのっけから、スタッフファンクションである管理本部付けとなった。管理本部内とは言え、主たる業務はIR(Investors Relations)広報であり、企業財務の傍流としてのスタートである。組織はかなり細分化されていたが、何分会社が未熟で固まっていなかったから、ファシリティマネジメントやら総務的な業務も同時に熟していた。その後一旦は経理付きとなったり、時には海外勤務となったしたが、入社後4年が経った頃にはまた財務に戻った。傍流から本流へ戻った瞬間である。会社が株式上場する前の混沌とした時代であったから、目の前に立ち開かる色んな業務に四苦八苦しながら取り組むことが多く、当時は時間が経つのがいやに長く感じた記憶はあるが、貴重な時代ではあった。元来、資格に拘ったこともなく、また、資格を取得するだけの頭(意識)もなかったから、取り敢えず、できる業務を最後までやるとの思いで尽き進んできた。「これをやりたい」と会社に直接訴えるタイプでもない。但し、『何が来ても、いつでもすべて対処できますよ』とのオーラを出すようには心掛けた。而して、こと遂行業務に関して言えば、傍流であれ何であれ、枝葉末節に拘らずに一心不乱に努めれば、やがては本流につながるとの自然の摂理にも似た現実を学んだ。

日本の将来を担う若人に伝えたいのは、二点である。まず、決して現状に甘んずることなく、一心不乱に課題をひとつひとつ片づけて行けば、やがて道は開けること。もう一つは、僕の場合は多少の転職も重なり、自分スタイルを確立するまでに20年近くかかった訳だが、新卒会社一筋で歩んできた場合、できれば30歳代半ば、遅くとも40歳までにやれることをやり尽くし、羽根(アンテナ)を広げて業務領域の『幅』を持たせておくこと。そこから先は、ただひたすらにこれまでの経験則・失敗談に基づき、『深み』を追求して行くだけである。『羽根を拡げる』とは虚勢を張ることではなく、世間に散乱する肥やしを拾い集めることである。

至極当たり前のことを記したが、これらの教訓は、そこいらのビジネス教本を読めばどこにでも書いてある。あまりにも定説であるがゆえについ読み飛ばしがちであるが、若い時にこの『幅を広げる』は、気づいた時にはもう遅いことが多く、敢えて書いた。

本流当時、社長に直接聞いたことがある。国際的に有名な巨大コンピューター企業出身で「原爆落としたアメちゃんには勝てんがな」が口癖の、ある意味人格者の社長である。40歳半ばでそこを辞め、以降、3~4社の外資の社長を経て当社の社長として招かれた60男であった。「ここ10~15年で何か『伸び代』がありましたか?」と。答えは簡単、「特にないね」であった。半分謙遜もあったとは思うが、やはり、若かりし頃の幅広い経験を、社長業として経営を張るための深みに変えたような人物だった。元々、企画畑が長かったようであるが、経営陣としての数字の捉えは見事だった。

世の中、これから先もますます高齢化社会になるだろうが、いつの時代もおおよそ不変の真理がある。孔子の『論語』の中の教えである。《十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る》とはよく言ったもんだ。伸び代は、普通40や45歳で止まる。そこからは、自身の経験が詰まった引出しの中から、各々に見合った経験値と言う道具を引っ張り出して、それを加工したり調整したりしながら、作業を進めていくような感じであろう。

一部の大企業はいざ知らず、巷の企業であれば、二昔前まではスタッフファンクションのさらに傍流の人間は、いくらもがき足掻いても這い上がって行く術すらなかったろう。証券バブルが崩壊し、企業不祥事が相次ぎ、やがて企業コンプライアンスやらガバナンスやらが囁かれ、何かと騒々しい社会となってきた。従前であれば、事業中枢のラインファンクションのしかも本流のみが、社長の座を射止める唯一の定位置だったろう。総務や経理など非事業スタッフファンクションに、当初より好き好んで入社した者は、業種にもよろうがそこからナンバーワンを目指すのは相当困難であったし、もとより資格すらなかったろう。昨今は、ラインであろうがスタッフであろうが、能力があり、かつその能力を正当に評価できる人物と出くわすことさえできれば、いくらでもチャンスを掴める時代が来た。但し、先ほども触れたが、そのためには、孔子の言う《 四十にして惑わず 》を若い頃から意識する覚悟が大事である。そこに到達するまで、羽根を拡げて大いに飛び回って欲しいと思う。

僕は、天命もわからず、耳順う気持ちも薄弱だから、もうしばらくは悪あがきしてみることにする。

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