【Japanese and soft power】日本人

油山モーモーランドから天神・博多湾を望む

■日本人 -Japanese and soft power

世界を旅すると、たまに日本人であることを妙に意識することがあります。なお、僕の経験した世界とは、米国(本土、島嶼を含みます)であったり独逸・英国の欧州であったり中国・韓国・台湾・フィリピンの亜細亜であったりと少々限定的ではありますが、とは言え昨今は日本国内で働く外国人も相当増えて来ましたから、これらの人々を加えるともう少しは広がります。

何を意識するかと言うと、ひとことで言えば『卑屈にならずに済む』と言うことではないでしょうか。卑屈にならずに済むことを意識するとは少々わかり辛いやや奇妙な表現ではありますが、おそらく多くの日本人が無意識のうちに一度ならずは体験したのではなかろうかと推測します。

なぜ、卑屈にならないのでしょうか。これは、他国の人々の面前ではなかなか言い難いのですが、外国語が堪能だとかお金持ちだからと言った理由ではなく、単に『教養』だろうと思うのです。唐突に教養と言うと少々居丈高に聞こえるかもしれませんが、僕が思う教養とは学問や知識の高さを競うのではなく(勿論、高いに越したことはありませんが)、歴史だとか文化・慣習・精神・品格・礼儀・作法などを指します。

諸外国に赴いた時に、もしくは日本国内で外国人に接した時に「私は何と愚かで卑しい民族なんだろう」と感ずる日本人は皆無に等しいことが想像できます。勿論、どの外国人もこんな場面で自分自身を卑下することは稀かも知れませんが、特に、日本人の場合は、言葉が上手くしゃべれないもどかしさを除けば、そういった憂鬱に陥るケースは少ないように思います。

これは偏にこころの『余裕』に起因するのではないでしょうか。懐の深さだと言い換えてもよいと思います。昨今の日本人は、大分様変わりしてきたようにも見受けますが、何と言っても日本人はまず、自己アピールが下手ですね。我先にと集団(組織)に乱れ入ることも他国に比べれば得意ではないようです。先んずる前に周りの状況や空気を気遣うからでしょう。僕の随分若い頃は、このことをもって「日本人は積極性が足りない」とか「自己主張がない。無機質!」とか批判的な意見が圧倒的に多かったように思います。ただし、相応の日本人は他国に比して知的水準が低いわけではなく、むしろ逆に先に述べた教養は、総じてかなり先進的だと言えるのではないでしょうか。

では、なぜ、教養が高いと言えるのでしょうか? 月並みではありますが、まず第一に、何よりもまず日本人個々による勤勉性の賜物であると言えると思います。但し、どんなに個人が勤勉であったとしても、個を養う国柄(幹)が悪ければ個性を引き上げたり伸ばしたりすることには限界がありましょう。この我々祖国の国柄こそまさしくソフトパワーだと思うのです。

先の大戦に敗れた日本人の先達は、荒廃し混乱した祖国を再び立て直すために戦後一貫して一心不乱に働いてきました。米国の庇護もあったとは言え、焦土と化した日本を戦後20年を待たない1964年には東京オリンピックが開催できるまでに復興させ、68年にはGDP(当時はGNP値)が米国に次ぐ世界第二位となり、見事な高度経済成長を成し遂げて来ました。なお、GDP値は2010年にお隣の中国に抜かれはしましたが、何と42年もの間米国の真後ろを走り続けてきたわけです。この間、79年には米国の社会学者エズラ F. ヴォーゲル著による『ジャパン アズ ナンバーワン』なんかも発刊されるまでになり、日本が持つハードパワーと同時にソフトなパワーが持てはやされ、漫然とではありますが何となく意気揚々に感じ入った時代もありました。

さて、この我々の持つソフトパワーの源こそが、日本人が昔から脈々と受け継がれ培われてきた国柄であり、その国柄に裏打たれた教養ではなかろうかと思うのです。

「このれっきとした事実を忘れたか、もしくは無かったように振る舞う日本人知識層がやたらと多い」。昨今の一部政治家やら、学者やら文化人やらの言動を見聞きするにつけ、頓にそう感じることがあります。70余年前の大戦が、古来日本の良き文化・風習を一瞬で消し去ったとでも言うのでしょうか。帝国主義の是非や戦争の善悪、また敗戦にまつわる諸説などをこの場で一々取り上げて蘊蓄することは避けますが、たった一回の大敗北で、例えば、聖徳太子により604年に制定され今日まで1400年もの間承継されてきた十七条憲法冒頭の『和を以て貴しと為す』や、鎌倉時代に始祖する武士道(精神)義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義を根底から塗り替えることなど到底不可能です。戦火により瞬間ハードは壊滅しましたが、ソフトパワーは綿々と引き継がれて生き抜いています。日本人としての勤勉さはもとより、物静かさ、礼儀正しさ、几帳面さ、誠実さ、温厚さ、秩序正しさ、協調性などは、先人達により築かれ脈々と今日まで引き継がれてきた我々がひそかに自負できる教養でありましょう。それとなく何度も体感してきましたが、この日本固有の教養こそが知らずと心の余裕につながるのであろうと思うのです。

油断や慢心はご法度ですが、さりとて自国や自身を卑下したり卑屈になったりする必要は殊更ありません。ただ単に、皆がこの国柄で生まれ育ったことへの『感謝の念』を今一度意識すればよいだけだと思います。人は自分自身で出生地を選べませんから、偶然とは言え本当にありがたいことです。生まれた瞬間に下駄を履かせてもらったようなものです。昨今、アジア隣国の行状を見聞きするにつけ尚更感ずるところであります。

 

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