【Double standard 】二枚舌 

レインボーブリッジ越し富士の夕焼け

■二枚舌 - Double standard

ダブルスタンダード。標準的な日本語訳は『二重規範』であるが、日本人には『二枚舌』(矛盾することを言う、嘘をつく)の方が素直にピンとくるだろうから、このような日本語タイトルから始めてみる。昨今SNSでよく話題となるブーメラン現象なども、その根源は二枚舌にかなり近い気がする。また、この二枚舌の裏に見え隠れするさもしい根性や偽善についても触れてみたい。

響きは、やはり何と言っても良くはない。聞いた瞬間ちょっと眉をしかめたり、相手を蔑んだりする言葉である。仮に他人から「お前は二枚舌だ」と面罵されたら、言われた本人は誰もが烈火のごとく怒るであろう。たとえ心当たりがあったとしても、それくらい居心地が悪い言葉である。なぜこの章で書いてみようと思ったきっかけは、最近この言葉が僕の頭の中を過ぎる事象にしばしば出くわすからである。同時に、その瞬間「あぁ、この人(達)は周囲からそう思われていることに気づいていないだろうな」と確信するからである。確認したことはないが、たとえ聞いたって十中八九わかっちゃいないだろう。あまつさえ韓国大法院が募集工(朝鮮半島募集・斡旋労働者)に対し支払いを命じる判決が確定した。当たり前の日本人からすればどうにも腑に落ちないこの問題だって、とどのつまり二枚舌である。ただ、他のアジア周辺にはもっととんでもない二枚舌国が現存するし、目を世界に向ければ欧州・中東情勢などさらに耳を疑うばかりの現実の連続である。命の危険がないわが国などまだ可愛い方かもしれないが、話を海外へ逸らさずにわが日本国について語ろう。

まず消費税増税に纏わること。納税は国民としての義務だから決まったら従うしかない。メディアの論調も心底はわからないが、増税反対の意見記事は寡聞にして知らないから概ね承知しているのであろうと思われるが、一方で軽減税率適用の指定席には毎回新聞(定期購読)が座り、話題にもしない。今の新聞に、はたして公共性などあるのだろうか。見事な二枚舌である。毎年夏の風物詩となって久しい熱闘甲子園についても言える。元々高校野球は各々の地域代表選抜であったはずだ。メディアは対象となる高校・選手・友人・家族に美談のスポットライトを当てる。高校も監督も選手自身も一心腐乱に野球へ打ち込む聖人君子であらねばならない。ところが実態は、メディアは稼げるだけ稼げ商業至上主義が丸出しであるし、選手は強豪校(特に私立)ほど地元出身者よりも他県からの者がむしろ多いから、学校は地域の代表であったとしても組織を形成する選手は多くが傭兵であり、すでにプロ球団と構造は同じである。また、のっけからプロを目指して頑張っている選手も少なくないだろう。開催期間中はプロ野球そっちのけで平然とスポーツ誌の1面を飾り、ドラフト会議になれば何度も繰り返し指名のシーンがテレビ放映される。何もこれらの現象が悪いと言っているのではない。メディアとは言え利益を追求するのは当然であるし、選手は自身の将来を思い描いてプレーする。当たり前の話である。であるならば、甲子園そのものにすでに金が蠢いているのだから、実態に合わせてもっとギラギラと商業色を放ってもいいのではないか。長いことこの部分には触れずに、やれ学生の本分だとかフェアプレーの精神だとか模範・健全だとかを全面に押し出すことにより、本質は大人主導のビジネス社会そのものであることをずっとひた隠しして来た。「これを着ろ!あれを着ろ!!」とサイズの合わない服を催促される球児達も大変だと思うが、それ以前に、大人たちはこのシーズンの一連ビジネスで一体いくら稼いでいるのであろうか。二枚舌の典型であろう。

まだいくらもある。今年9月末に行われた沖縄県知事選挙のこと、争点のひとつに米軍普天間基地移転問題がある。周知のように移転先は辺野古。僕は、果たして辺野古への基地移転が良策かどうかは解からないし、ましてや全沖縄県民の琴線に触れる米軍基地県外移設の可能性の可否についても見当はつかない。しかしながら、正規の手続きを経てここへの移転が議会で決定されたことは紛れもない事実である。そもそもこの話の発端は、普天間基地が周辺に学校や住宅地が密集した『世界で一番危険な飛行場』であるから、事故発生の回避や居住者に対する騒音問題をクリアにするとの理由により発議されたと記憶する。どう迷い込んだのか、現時点でこの普天間リスクを回避するとの論点はどこかに飛んで行ってしまったような感がある。事故が起こってからでは遅い。また、政治家やメディアなどが今後もダブルスタンダードで居続けるならば、この問題の解決は決して実現できないだろう。

自衛隊の存在と憲法改正との関連についても言える。自衛隊の存在を憲法へ明記すること自体の賛否についてはここでは議論しないが、著名な複数の憲法学者による「自衛隊は(憲法に照らして)違憲」との解釈にどう真正面から取り組むのであろうか。僕などは、国にとって本当に必要なモノが法律違反と言うのであれば、法律そのものを変えればいいと単に思うのだが、もしこの部分に責任を持つ立場の者でこれら思考回路が理解できない者がいるのであれば、その者は二枚舌に他ならないだろう。理解できない、もしくは理解したくないのはどこか心にバイアスがかかるからである。特に憲法は国の根本法であるから、時の条文そのものの解釈に齟齬などあってはならないのは原理・原則であろう。

前述したいわゆる募集工問題や、慰安婦問題、拉致問題、竹島・尖閣・北方領土などの領土問題等外国が絡み発生するものへの国内世論についてもしかりである。政治家、メディアや一部の法曹家・知識文化人は、まず話し合いが第一義であると主張する。特に相互の人権が絡むような場合、話し合いによって相互理解をもっと深めなければならないと言う。では伺いたい。上記の問題の各々立場が逆であった場合、それぞれ相手国は話し合いを求めて来るでしょうか?答えは簡単、瞬時に無視されるか最悪戦争になるしかないだろう。極端だが、この中に、自宅前道路脇にいつもたたずむ浮浪者が可哀そうだと同情する偽善者はいるのだろうか?偏見で言うが、「話し合いが大事」と宣う奴に限ってわが身に直接降りかかりそうな火の粉があれば即座に振り払うのではないかと推論する。この場合であれば、十中八九直ちに警察へ通報し退去させるだろう。二枚舌も甚だしい。個人的には嫌いな奴とは話さなくともよい。しかし、解決したいとの思いのある者や責任ある法人格の立場の者ともなれば、嫌な奴とも話をしようと一旦は努力せざるを得ない。ただし、土台意見が合わない者との交渉は《Agree to disagree》(考え方の違いを認める)を確認することに終始する場合が多く、和解に越したことはないが最終的には多数決かそれが不可能であれば訴訟か最後は力勝負になるのは世の必然であろう。

なぜ、教養ある詐欺でもない人間が二枚舌を使うのだろう、とよく考える。最近思うことだが、この二枚舌・ダブルスタンダード型人間は少々視野が狭いのではなかろうか。また、すでに書いたが何かへの特別な思い込みが強いゆえに、思考のどこかでバイアスが掛かることが多いように見受ける。そうして、どこかで話のつじつまが合わなくなり、聞かれたことに対する応えがズレてくる。冒頭でも書いたが、おそらくズレたとの認識はないのであろう。また、最悪の場合はブーメランとして自分に返って来るが、これも余り自覚がないのかもしれない。

昔、仲間と共に企業の株主総会対策を練っていた時期がある。会社業績が好調であれば想定問答の回答は素直に作成できる。ただ一旦、業績低迷や不祥事が生じた場合その回答作りはより入念に行わなければならない。すなはち、嘘をつかず出来るだけ正直に応えようとするが、どうしてもと言う場合は、ぼかしたり逸らしたりすることがあった。相手(出席株主)からすれば腑に落ちないケースもあったろうし、納得できない回答もあったろう。こちらは確信的であるから出来るだけ二枚舌にならないことに配慮し、万一逃げ道がないと判断した場合は謝罪し、同時に将来に対する決意を語るしかなかった。総会が終結すれば正直ほっとした。

当時を想い出し自戒するが、やはりつじつまの合わない二枚舌の答弁は居心地が悪いし何より生産的でない。建設的な話し合いが有益なことぐらい皆わかっているはずだが、ひょっとしたら二枚舌を使う相応の面々もどこかにちょっと後ろめたい気持ちは持ち合わせているのかもしれない。日本人には偽善のない素直さが一番ふさわしいと思っている。

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