【Conjecture and flatter 】忖度とおべっか


山中湖 まだ見ぬ夜明け
■忖度とおべっか - Conjecture and flatter –
忖度の意味を調べてみた。『忖』も『度』もはかるという意味。他人の心を測ること。他人の心中をおしはかること。推察。最も古い用例は中国詩経で、やはり他人の心情を推し量るとの意味合いで使われているようである。僕がこの言葉に初めて接したのはかれこれ20年以上も前で、歴史書であったか誰かの伝記であったか、またはビジネス書であったかは忘れたがとにかく何かの本で知った。学校の教科書で教わったものではない。出会った瞬間日本人好みの奥深い表現だな、そう感じた。聞きなれず思わず辞書を引いた記憶がある。ことばの響きが気に入ったから、以降、自分でも色んな場面で使ってきたし態度(精神)としても真似ようとした。なぜ奥深いと思ったかと言うと、古来日本人としての美徳には、人に思いやりをもって優しく接する(仁愛)とか、嘘をつかない(誠実)とか、弱い者いじめをしない(正義)とか、過度に自慢をしない(謙虚)とか色々とあるが、これらの行動はすべて個としての立ち振る舞いを戒めるための徳であり決してその見返りを求めていない。忖度と言う言葉も、他人(どちらかと言えば目上者に対してか)の心中を素直な気持ちで推しはかり、その上で自分が為す言動があればそれはあくまでも自由かつ自発的であり、またその結果、果実が生じようとも自身に求めない。僕はそのように解釈した。
だから例えばあるビジネスシーンで、先輩・上司が『公』(組織/会社/社会)のために何かをなそうとしたならば、その想いや心情をいち早く察して滑りを良くしようと段取ったり、疲れているなと思えば気遣い手を添えようとしたり、逆にそっとしておいたりした。相手を忖度することにより、『公』に仕えて何かが成し遂げられる。そうなれば『公』はさらに良くなる。『公』が良くなれば皆が良くなるしやがては自分も良くなる。そんな自分の言動を見て、良かれと思った部分だけでも誰かが踏襲(忖度)してやってくれればさらにより良い『公』が出来上がる。こんな思いて捉えていた。
ちまた昨今騒がれている忖度とは、とどの詰まり『私心』が前提となっており、百歩譲って前提とは言えなくとも、ちらほらと見え隠れしたりと所詮大義がない。要するに、行き着くところは個人の欲であり、わが身可愛さゆえの保身となる。元来、僕の理解が間違ったのか、それともそもそもが今流りのこんな解釈だったのか、学術的な観点からはわからない。ただ単に、忖度に纏わる自身の想いと世間?との乖離には唖然としたまでである。
一方、誰だって知っている言葉に《おべっか》がある。弁口(べんこう)という言葉に由来し、元来口のきき方や言い方がうまいことを意味する。今では、ご機嫌をとったり媚びへつらったりする行為を揶揄して使われることが多い。ただし、社交辞令としてうまく用いれば、その場は和み決して一方的にいやしい表現ではないと思う。要は、用いる者と用いられる側との気持ちの問題である。ところが、ここにひとたび相互の打算が折り重なると、このおべっかは俄然下卑てくる。
既述したがもともと忖度自体に色はない、無色透明であろう。しかしながら、この忖度におべっかが加わるとそこには明らかに我欲が生じ、わが身可愛さからの有らぬ解釈が始まり良からぬ方向に進んでいくと思われる。ちまた騒がれている忖度は、こんな積み重ねの結果であり、僕が初めて接した時分からは相当遠い言語となってしまった感がある。「なぜこんなに曲がったんだろう」と考えること然りであるが、おそらく、我々日本人の心の持ちようが貧相になったからではないかと思う。繰り返すが、忖度自体はわりと高邁な表現であると思う。しかし、これを使う日本人のさもしい感情が本来この言葉が落ち着くはずの清き地位を貶めたのではないかと思っている。そもそもメディアだったか政治家だったか官僚だったかはもう推論はしないが、よき日本人のこころが近年益々すさんできているのではなかろうか。意図的な曲解は良くない。将来の日本を担う若者に対しても、憂うべき事象だと思う。