【Authority, and Power】- 権威と権力 -

■権威と権力 - Authority and power -

権威とは、その人物の実績や立ち振る舞いから身に付いた人格を以て自然に周囲の信頼を勝ち得たものであり、権力とは、立場に付随して外部から与えられた力であり、強制的に同意や複縦させる権限や地位を指します。

憲法学者のややこしい解釈はさておき、現代の日本におけるこの権威象徴の国家元首が天皇であり、権力の国家的大親分が内閣総理大臣と言えると思います。天皇が権威であることは何も近代になってからのことではありません。明治維新以前の武家社会においても、その時々の政治権力をもった幕府に対して正当性をあたえる権威としての役割を果たしていました。権威と権力の二重構造は、武家政権が勃興する以前よりその片鱗が見え隠れしていたとも考えらますが、仮に平安末期以降の台頭による支配体制が始祖だとしても、1,000年かそれ以上の気の遠くなるような年月を経て承継されてきたものだと言えます。

現代社会において、子供の頃は人よりもがむしゃらに突っ走る奴が身近な周囲を支配(は大げさかもしれません。“圧倒”くらいでしょうか)します。ある時には腕力が強いもの、勉強ができるもの、またある時にはスポーツが得意なもの、ゲームが上手いもの、といった具合です。そもそも権威も権力もへったくれもないから、互いがそんなしゃらくさいことを意識することなく集団が形成されます。少し大きくなって思春期を迎える頃には、前述の得意分野にプラスして組織を取りまとめる能力などが加味され、例えば、頭が良くて運動神経が達者で人とのコミュニケーションをそつなくこなすようなタイプが学内の中心に担ぎ出されて権力を掴みます。ケースバイケースではありましょうが、人から好まれるいわゆる人望の厚いタイプであれば、同時に淡い権威も持ち合わせた奴が出てくるでしょう。

やがて社会人となり企業に入れば、誰しもが強烈な縦序列の最下層からスタートを切ります。今日まで築き上げてきた秩序は一旦ご破算となり、新たに属した組織の権力構造にどっぷりと浸かりながら自身の立ち位置を固めて行きます。ここでの最高権力者は社長でしょう。一方、組織の中には権威という役職はありません。これは何も企業内だけにとどまらず、冒頭の内閣府であっても省庁、国会議員であっても同じことです。そこにあるのは一握りの権力者だけで、権威者や権威職などが表面に現れることはまずありません。権威そのものが、なにか形のある世俗的なものではないからです。

人は誰しも権力を手中に収めた時から、見えないがゆえの権威が欲しくなります。権威が大げさであれば、名誉とか名声と置き換えるとピンとくるかも知れません。たまに、「俺は権威など大嫌いだからいらない」と斜に構える者もいますが、ここではあくまでも一般論としての話です。人間のレベル程度であれば他人のものさしで測れない者などおよそいませんから、権力を得た大多数は必然に名誉や名声を求めることが容易に予想できます。これは何も軽侮を込めているのではなく、それが人間として至極真っ当で遺伝のようなものであることを述べているに過ぎません。

地位を得て巨万の富を築いた権力者が、その後財団をつくり慈善事業に乗り出すパターンなどはまさに言いえて妙でしょうし、権力とは直接結びつかない権威や名誉に関する世界の通例でも、物理学、化学、生理学・医学などの分野でのノーベル賞なるものがありますが、ほとんどの人が慶んで受賞することはニュースなどで見てのとおりです。国内においても、科学技術、学術、スポーツ・芸術文化分野に関する紫綬褒章などの叙勲の光景を見かけますが、これも「名誉(権威)ある賞を頂戴し大変光栄です」と言いつつ皆が謹んで戴くことが多いようです。このことからも、人は皆、この権威や名誉、名声に憧れる生きものであり、自然の摂理であることがわかります。

地位や権力はある程度自己の努力で獲得できますが、反面、権威とは、だれもが恋い焦がれながらも自分ではどうすることもできず、また、相当長い年月を掛けて醸成されてきたものです。そうして、時間とともに深みを増し、その輝きを放つものなのです。
権威とは、つまり歴史と伝統に根差したものであり、その精神性は気高く万民から尊崇の念を高められたものであり、一方権力は、所詮は力の比ですから伝統や万民などを前提とする必要がなく、短時間でも2人以上居れば比較的容易に作り出すことができます。

今日の世界を眺めれば、お隣の中国では、既に権力を手中に収めた国家主席が権威付けのための憲法改正を行うことで遮二無二策を弄したり、最大の核保有国であり権力の象徴でもある歴代のアメリカ大統領が、ノーベル平和賞受賞に奔走したりと話題は枚挙に暇がありません。

一方、日本には、われわれが生まれる遥か以前から、必然的に存在する最高の権威があります。むしろ空気のように当たりまえ過ぎて日常的に意識することはあまりありませんが、厳然と存在しています。これがまさに皇室であり、皇室の頂点である天皇です。皇室は、既に述べた歴史と伝統や崇高な精神を語るまでもなく、いわゆる国民の鏡となり尊敬され、天上には天皇が鎮座されています。いまさら権力を求める必要などこにもない尊い権威です。世界中のどこを見渡しても、比肩できる国家はありません。誤解を恐れずに述べるならば、皇室も日々研鑚を積み重ねて来られましたから偉いことは言うまでもありませんが、この国柄を綿々と紡ぎ共に生きてきた国民にも十分に慧眼があったのだろうと我ながらホッと安堵しています。この地においては、長年権威の頂点を狙った権力闘争が圧倒的に少なかったためです。当たり前のように、国柄の中心がブレない国家に生きる国民は本当に楽ですよね。

現代を生きる私たちにはまったく当たり前過ぎて、日頃考えたり意識したりすることはまずありませんが、ご承知のとおり今年2019年は今上天皇の御譲位、新天皇御即位、同時に改元の式典が行われる稀な年に当たります。

他国から称賛されるほどのもではないのかもしれませんが、世界的に希少で“不思議”な祖国日本のことを、この際にこれら皇室の伝統を通して思いを馳せてみてもいいのではないかと思います。皇室や天皇、天皇制や改元などを真正面に捉えて見ることができない者をも含めて、すべての日本人がちょっと立ち止まって考えるよい機会になるだろうと思います。この“不思議”さは、虚構ではなく私たちひとりひとりの祖先が創り上げてきた歴とした事実であります。日本国民は、目には見えないながらも、この文化伝統の根源である無償の恩典を附与された、卦体(けたい)ながらもまことに幸運な民族なのです。

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