【 One another】おたがい


東京都港区レインボーブリッジ
■おたがい - One another-
お互い。意味は自分と相手、または双方、です。用法として『お互い助け合いましょう』『お互い頑張りましょう』や『お互いの立場を尊重する』などがあります。さらに英語表現を調べてみたところ、直訳すれば each other, one another, together, mutuallyあたりでしょうか。ちょっと飛躍すれば help each other, be in the same boat, live and let (others) live(*意訳;もちつもたれつ)、give and take, やwhat friends are for(そのための友達)なども出てくるようです。
いずれの場合も、自分と相手が双方ひとしい立場や苦境、境遇、運命に置かれている状況下で、しかも言葉の根底にある相互の関係は、時の地位や身分にかかわらず常に対等であることが前提となります。日本と言う国家は地形上島国でありますから、他国から四海で遮られ永らく農耕を通じて平穏な共同体を形成してきました。したがいこの『お互い(さま)』と言う家族的な表現は、互助や共生の精神が発達した日本には大変しっくりとくる言葉ではないかと思います。
ところでこの"お互い"に関して、爾来、周辺諸国や国内の一部から聞こえて来る奇妙な用法(声)に接し、ちょっと立ち止まって整理してみようと思います。 まず国内からは、相変わらず何の前提も設けずに「相手の主張やその主張の根拠を知らなければ対話も論争も成り立たないのだから、〝お互いが胸襟を開いて話し合い課題を解決する″ことが重要である」と言った学級委員長的な模範論が聞こえてきます。声の主はあくまでも個人ですが、背景には新聞・テレビと言ったメディア媒体やはたまた政党などが控えていますからいわゆる組織的な主張ですね。また、立場は逆になりますが、お隣の半島国家からは、元慰安婦や朝鮮半島出身労働者問題に関連してしきりに「‟お互いが知恵を絞り出し合い”ながら、未来志向の関係を築かなければならない」と騒々しくも白々しい日々が続いています。この〝お互い″は、冒頭の解釈から判断すれは、いずれも等しい関係ではなくそもそも前提となる条件が歪んでいます。
例えば、AさんがBさんのお金を盗んだと仮定します。Bさんはその事実を明らかに察知し、Aさんへ問い質しました。AさんはBさんの追求に対ししらばっくれて「私は盗んでいない、人違いだ。」と主張します。ここで先にAさんが話を逸らして「まずお互いが知恵を絞り、双方の未来に向かって話し合おう」と言ったら、間違いなくBさんは「とにかくまず私のお金を返してから言え!」と烈火のごとく怒るでしょう。ではBさんが譲歩をして、先んじて「お互い話し合いが大事だ」と言ったとしましょう。この場合AB間の軋轢は一時的には多少和らぐかもしれませんが、Aさんが同じような振る舞いを二度三度と続けて起こせば、どんなに温厚なBさんでも普通は憤るかさもなければ無視を決め込むでしょう。Aさんに準えた半島国家の場合は今に始まったわけではなく、福沢諭吉翁も予言したように100年以上も前から何ら変わらぬスタンスで颯爽と生きて来たわけですから、決して許されたものではないですがさりとてこちらがどう足掻いたって仕方がないですね。年季が入っていますもの。
もし、AとBの地位や立場が逆転すればそこで初めて自覚するのでしょうが、日本人の気質やら現半島の国(経済)力を見る限り半永久的に駄目でしょうね。日本人は相変わらずお花畑気質のお人よしがい多いですし、相手はこれまで日本が培ってきたソフトパワーには当分及ばないでしょう。ここでは理不尽さは適宜正すとして、某国会議員が指摘するようにあいさつ程度は交わすだけの「丁寧に(異議を正して、あとは)無視する」が一番合理的であるように感じます。こちらが双方ひとしい間柄であると感じるまでは、放っておけばいいのではないでしょうか。
他方、ことさら問題だと思うのが、半島やら大陸やらの周辺Aに対しての模範者Bに関する一部組織的日本人の主張です。出会いがしらに勃発した問題であれば一度目は大人の対応でも良いでしょう。ところが相手の不始末が複数回重なってきても、主語が常に日本ではなく相手国であり、仕舞いに「お互いが胸襟を…」と我慢を強いたいつものステレオタイプになるのです。ところが相手が米国(国内の米軍基地を含む)や西側諸国となるとそのスタンスは打って変わって偏重します。特に沖縄県の米軍基地問題に関する報道などを聞くにつけ、米国の立場や駐留米軍の気持ちに触れて語られることはまずありません。主語はいつも限られた市民(県民)ばかりです。相手が弱者であればあるほど惻隠の情が大事だと言うことは頭では判っているのですが、所詮僕などは俗人ですから、相手があまりに無体な場合は仏の顔も三度までとばかりに怒鳴ったり、時には口をきかなかったりします。その瞬間は自分と相手とが対等な立場ではないと考えるからです。この時ばかりは対等な時期が来るまで冷却期間を置きますし、来なければ二人はそれまででしょう。
いつも相手の立場に立(寄り添)って物事を組み立てられる人間は本当に素晴らしいと思います。しかしながら、そういう聖人君子張りの同胞に対しては、例えば国対国の場合ではなく、個人(自分)対個人(相手)のモロに利害が衝突し、場合によっては自身にとって多少の不利益を被る可能性がある場面であっても仏様であって欲しいことを願うばかりです。