A legal measure “Foreclosure” - 法的措置《差し押さえ》-

■法的措置 差し押さえ A legal measure “Foreclosure”

日本とお隣の韓国との、1965年に制定された日韓請求権協定の是非をめぐる《旧朝鮮半島出身者労働問題》が彷彿としています。ここで、法的根拠がああだこうだや、一国の国内判決が国際法に優先するのか、などを語る気は毛頭ありません(あまりにも当然すぎて)が、この前段階部分に相当する《差し押さえ》に係る一連の行為について、自分の経験を踏まえて、変だなぁと思うことをひとこと述べてみようと思います。残念ながら、活字やテレビを通じて、これまで正しくここを語れる日本人を寡聞にして知らないからです。

法曹家であれば至極当然の《差し押さえ》は、債権者がその債権を法的に回収するために、債務者の財産処分を制限する古来の手続きです。わが日本の場合、まず、債務名義なるもの(*水戸黄門の印籠のようなものです)を取得し、これに基づき強制執行手続きを経て《差し押さえる》わけです。差し押さえ対象がおよそ《現金》以外の場合は、《競売(*換金するため)申し立て》の必要もあります。

ここで、冒頭の問題について何が可笑しいと感ずるかと言いますと、くだんの被告(債務者)とされる日本製鉄(現新日鐵住金)や三菱重工には、すでに《財産処分を制限される》という《実害》が生じている事実です。にもかかわらず、万一、《競売(現金化)》されれば対抗措置を取らざるを得ない(≒されるまでは我慢する)、といった随分悠長なご意見が、政治家やらメディアにまことしやかに蔓延しているのです。閉口ものだと感じます。

例えば、個人である僕やあなたの資産(給与や自宅マンション)が《差し押さえ》られたと仮定しましょう。その時点で、まず、給与であれば、即座にある一定額部分以外は手にすることができなくなります。不動産(マンション)であれば、《競売手続き》が完了するまでは従前どおり住み続けることは可能ですが、反面、この間自分の意志で処分しようにも、どうすることもできません。当事者行為が制限されるからです。個人の心理として、果たして《競売(現金化)》されるまで、このままの状態を安閑と過ごしていられましょうか?

僕は、随分と昔、金融界に身を置いていたことがあります。バブルが崩壊した一時期、僕の会社が債権者として《差し押さえ》を行ったことも、債務者としてこれを食らったこともあります。だから、この《行為》を行う時の心理はよくわかっているつもりです。とどの詰まり《話は尽きた、とことんやるぞ!》です。合法ですから、いずれの立場も恨みっこなし、です。しかしながら、この行為実行のあかつきには、必ずや相互に感情的な軋轢が生じます。それほど暴力的(?)な一面があることは、否定できないと思います。

国際間の紛争(というよりも一方的に仕掛けられたヤクザまがいの行為だと思う)である以上、より慎重になるのもわからなくはないです。日本が随分と大人の対応を取り続けていることも理解できます。しかしながら、それをいいことに、この期に及んで「お互い話し合いが大事だ」とか「日本が一方的な感情論に流されるのはおかしい。冷静な対処が望ましい」とかは、随分と相手を思いやった優等生発言ではありますが、国益に反します。煽る訳ではありませんが、僕は、先の、自衛隊が受けた《火器管制レーダー照射》問題における照射行為こそが、この《差し押さえ》そのものだと思うのです。ここで発射(換金)の有無は関係ありません。

せめて、「すでに、この時点で度を越えており、本来であればここで対抗措置の発動が当然であるが…」といった時宣を得た正論を吐く御仁はいないものでしょうか?
それとも、この法行為自体が理解できていないのでしょうか?
立場が逆であれば、相手は、なりふり構わず烈火の如く対抗して来る者であることを、日本人はもう少し自覚してもいいのではないかと考えています。無責任な発言は、返ってこの先、話がこじれる元凶にもなりましょうから。

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